私たちは武器によってではなく、思いやり、愛情、美しさ、
善行によって人の心に打ち勝つべきです。

~スプリームマスター チンハイ

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u問答精選
  戦争は、好戦的な否定性から生じる/ 戦争をやめられるのは神の愛だけである/
  悟りを開いて強く祈る/
悟りを開いて平和な未来を構築する

u甘露法語
  習慣から脱してカルマを乗り越える

uスポットライト
  メディテーションという宝物で、楽しみながら自分自身を加持しよう

uマスターの講義
  我執と観音

u笑い話
  年長者は誰もいない/ 永遠の21歳/ うれしくない栄誉

u知恵の真珠
  観音のパワー

u霊性と科学
  情緒知能を超え、人生を成功させる

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  智慧は人類が万物の霊長であるための秘訣

u動物の有情世界
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ニュースマガジン  143号
2003年2月10日 出版
1990年4月1日 創刊
発行所: The Supreme Master Ching Hai インターナショナルアソシエーション出版 会社
発行者: 謝 幸玲


スプリームマスター チンハイニュースマガジンは、中国語、英語、オウラック語(ベトナム語)、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、ポルトガル語、韓国語、タイ語、スペイン語、日本語に翻訳されています。また、インターネットでダウンロードできます。「観音wwwサイト」のページをご覧ください。


問答精選

戦争は、好戦的な否定性から生じる


スプリームマスター チンハイ スロベニア・ルブリャナ 1999.5.26. (英語) ビデオテープ No.660

Q: なぜこの世には戦争があるのでしょう? どうしたらなくせますか?

M: 人類が地球に好戦的なエネルギーを作ったために戦争があるのです。憎しみや殺意を抱く時、また、神が私たちを愛するように私たちが他人を愛さなかったなら、いつでもこのような戦争を引き起こすエネルギーは作り出されます。戦争を現実化するのに十分なエネルギーが集まり、固まってくると、戦争が起こります。

 憎しみ、ねたみなど、この種のすべての否定的な感情は、愛情がエネルギーを持つのと同様にエネルギーを持ちます。誰かがみなさんを愛する時、あるいは互いに愛し合うと喜びに溢れて幸福に感じます。愛情は触れたり説明したりすることはできませんが、存在していることはわかり、この愛に浸ると気分が高揚します。

同様に、私たちが互いに憎しみ合うと、とてもいやな気分になります。そのため、時々病気になって寝込むことさえあります。憎しみ、ねたみ、物欲、無明といったこれらすべてのものが戦争をいつでも引き起こすのです。というわけで、私たちは日常生活で起こる考えや行為、欲望などに注意しなければならないのです。

悟りは、この世界におけるあらゆる災いの唯一の解決策です。神の愛だけが、この惑星のあらゆる病気の特効薬なのです。

 

戦争を止められるのは神の愛だけである


スプリームマスター チンハイ チェコ共和国 1999.5.28.(英語)ビデオテープ No.654

Q: 戦争の影響について、霊性上の観点から説明していただけますか?

M: 私に何がお話できるというのでしょう。無明のために人々が冷血に殺し合っているということについて何と言ったらよいのでしょう。戦争でひどく苦しんだり、両親や子供たちを失ったり、一生かけて働き積み重ねたすべてのものを失った人たちに、なんと言えばよいのでしょう? 私はただ、彼らの悲しみが少しでも和らぐように、命は永遠であり、神は常に彼らを愛しているということを理解するように、神が彼らを内面で祝福してくれるように祈るだけです。彼らが良いか悪いかは関係ありません。この世で失うものがどんなに多いかは関係ありません。天国は常に彼らのものなのですから。

  ただお伝えできるのは、もし、私たち霊的探求者が全力を尽くしてより高い理解レベルへと意識を高めようとするならば、世界はよりよい場所になるだろうということです。この事は、私たちが内面では神であると理解することによってのみ、つまり、目の前や隣にいる神を尊敬することができればそうなるのです。神の愛だけが同胞間のあらゆる憎しみや差別などをなくすことができます。そうすれば戦争は終わるでしょう。

  古代より私たちは争いを繰り返し、地球の財産や資源を破壊してきました。霊的指導者たちの教えまでも打ち砕きました。彼らの肉体や生活にもダメージを与えるのです。戦争によって何がもたらされたでしょう? いかなる戦争からも、何も得ることはできません。私は戦争を起こした者、被災者、双方を気の毒に思います。特に戦争を起こした者に対しては、より気の毒に思います。というのは、彼らは神から非常に遠く、暴力に訴えざるを得ないと感じるほど絶望的なのですから。

  絶望のあまり暴力的な手段による罪を犯すほど、彼らの内面は愛情に飢えているのです。この世の幻想に深くはまりこんでいるのです。もう是非の判断のつかなくなっている人に対して、私たちはただ残念に思うだけです。神が彼らを祝福し、もっと智慧と愛が与えられるように、そして彼らがよりよい生活に目覚めるよう祈るだけです。もし私たちが地球の向上のために肯定的な力と考えを集めて毎日メディテーションをすれば、戦争を早く終わらせたり、紛争を落ち着かせて情勢を改善したり、あるいは終わらせたりすることさえできます。戦争の犠牲者はこの物質世界では大変苦しみますが、人生が終わると神の歓迎を受けます。

  この世界を祝福し、戦争を終わらせ、苦しみを和らげる力が内在しているということをみなさんに思い起こさせるために、私はここにいるのです。それを利用するのはみなさん次第です。目覚めた人が多ければ多いほど、この世の災難は少なくなります。この世界はより良くなっています。霊性の修行者や菜食主義者が増えてきています。2、3百年すれば、地球はほとんど天国になっているのがわかるでしょう。もし、そのぐらい長生きすればですが!

 

悟りを開いて強く祈る


スプリームマスター チンハイ オランダ 1999.5.9.(英語)ビデオテープNo.647

Q: 戦争のさなかにいる同胞を助けるにはどうすればいいのでしょうか。

M: 人々を助ける最善の方法は悟りを開くことです。仮に、みなさんに親戚や友人がいるとして、みなさんがいったん悟りを開けば、彼らのためにより良く祈りを捧げることができます。みなさんは神に望みを伝えることができるからです。神もみなさんの望みをご存じです。けれどもみなさんは神を知りません。神が何を望んでいるのか知らないのです。それが問題なのです。それで多くの人が答えを得られないのです。神は答えているのですが、微妙な言葉で伝えるために私たちには聞こえないのです。それを受け取るには、静寂にならなければなりません。このことをメディテーション、内観、静かな祈りと呼びます。私たちは、まず神との接触を図ることから始めなければなりません。電話が再び通じるようにするため、電源を入れ直さなければなりません。それで神と話ができ、神の答えを受け取ることができるのです。神は、あることをするよう私たちに話しているのに、私たちは別のことをしています。というのは、私たちは神とつながっていないからです。この世の問題はそこにあるのです。

  私たちは、愛情深い考えや愛の力を与えることで、助けられます。しかし、私たちの祈りは強くなければいけません。今のところ私たちの祈りには力がありません。それは私たちが内在する力と通じていないからです。ですから、イエスは戦争を止めさせるためにあちこち行くようなことをして、人生を浪費しなかったのです。釈迦も国々の和平をもたらすためにあちこち行ったりしませんでした。彼らは人々が悟りを開くように教え導くのに忙しかったのです。なぜなら、地球や、宇宙にある他の惑星のあらゆる問題の唯一の解決方法がそれであることを知っていたからです。

  真心を込めて祈ることで私たちは彼らを助けることができます。しかし、悟りを開かなければなりません。まず、神の力と通じることです。そうすれば、考えたことや望むことはすべて実現します。現在、何かを望んでもそれを実現する後ろ盾がありません。例えば洋服や靴を買いたいと思っても、銀行にお金がないのと同じです。まず銀行にお金を貯蓄することです。そうすれば欲しいものを購入することができるのです。

 

悟りを開いて平和な未来を構築する


スプリームマスター チンハイ スロベニア・ルブリャナ 1999.5.26.(英語)ビデオテープ No.660

Q: 悟りは国の未来にどのような影響を与えますか?

M: ちろん、あなたの国のすべての人が悟りを開けば、かなりすばらしいことになるでしょう。神が国中いたるところを歩いているのを見るようなものです。あなたの国だけが影響されるのではありません。世界全体が影響を受けます。戦争が起こらなくなるでしょう。この国だけではなくすべての人々に対して、より多くの愛、平和、豊富な食物、必需品などが、もたらされるでしょう。恩恵がより平等に分かち合われるでしょう。この国がとても繁栄していて平和であっても、もっと世界のことを考えるべきです。そして、私たちが世界をより祝福できるように悟りを開くべきです。というのは、世界にはまだ多くの、より苦しんでいる人々がいるからです。


スポットライト

「メディテーション」という宝物で、楽しみながら自分自身を加持しよう    


スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ・国際禅五 2002.12.25. (オゥラック語)

D: 気付いたことがあります。私は真剣になりすぎていました。修行を始めたばかりの頃、メディテーションの時間になるといつも「ああ、メディテーションの時間だ」と言い、緊張していました。しかし「そうそう、神様に会う時間だ」と考え、五句を唱えて、集中するとうまくいくのです。

M: そうです。その通りです。メディテーションを楽しみにして下さい。メディテーションは本当に楽しいことです。

D: これを仕事にも応用しています。例えば、仕事で消耗し、とても疲れてエネルギーが無くなってしまいます。しかしその時、エネルギーはどこから来るのかと自問し、エネルギーは自分の肉体からではなく、宇宙の源から来るのだということを思い出すと突然、無限の力で満たされます。疲れなくなり、疲れていてもすぐに回復します。ですから、このちっぽけで有限な「自分」を選ぶか、「私は何ものでもなく、誰でもない。宇宙の力が働くだけだ」とただこのように考えるかという二つの選択肢があると思います。こうするととてもうまくいき、問題がなくなるようです。

M: そう、そうですよ。座る時には、リラックスしたほうが良いのです。正しいです。休みを与えてくれた神に感謝してください。他のヨガ道場ではメディテーションを「リラックスの時間」と言っています。最近、新聞、雑誌などの定期刊行物を読むとメディテーションについて書かれていますが、どうすれば元気に長生きできるかという話題の時には、休養やメディテーションといったリラックスする時間を見つけましょう、と書いてあります。確かにメディテーションのことが記載されています。今では、メディテーションは一般社会に広く普及しています。普通の人は、「神様を見つけるために、メディテーションしなさい」とは言いません。「リラックスするとか、気持ちいいとか、健康で長生きするとか、何でもうまくいくからメディテーションしなさい」と言っています。つまりいろいろなことがうまくいくためには、眠るのではなく、一日のうちにメディテーションや深呼吸など、休息する時間を持つことです。科学的に証明されているので、今ではみんなが知っています。もし一日のうちに、休息またはメディテーションのための時間を取るならば、身体はもっと健康になります。メディテーションする、毎日メディテーションのための時間を持つことは、最善の方法の一つです。今ではいろいろな雑誌、つまらない雑誌にもメディテーションについて記載されています。メディテーションは科学的に、そして世界中の人々に受け入れられたのです。ですからメディテーションをつらい事にしないでください。「ああ、神様、もうメディテーションしなければなりません。でないと共修に行けませんし、連絡係があれこれと言います」そういうことではないのです。メディテーションはみなさんにとって良いことなのです。

  メディテーションは自分自身にとって大切な時間です。私たちは一日中この世のさまざまな事のために忙しくしていました。ですからメディテーションの時間は自分の時間なのです。まず、自分を愛してください。他人のことも愛しますが、まず自分を愛してください。メディテーションのときには、大切にしているすべてのものを自分自身にだけ集中させます。そうして肉体や心を養います。メディテーションを十分しなければいろいろなことが起こると私があれこれ言うからするのではありません。そうではなく、メディテーションは自分自身にとってとても良いことなのです。メディテーションは、生まれてから死ぬ瞬間までの中で一番貴重な時間です。メディテーションは、自分自身にしてあげることのできる最高のことです。そのような最高のことができる人は他にはいません。自分だけが自分自身にすることができるのです。メディテーションは自分自身にしてあげることのできる最高のことです。自分のためにメディテーションすれば、自然に他の人々のためになります。家族、親戚、犬、猫などにも利益が与えられますし、木や花々にも利益があります。私はもうみなさんに話していますよね。

  メディテーションをすると周りの人や物、すべてに利益があります。しかし自分自身に一番利益があります。メディテーションは自分自身にしてあげることのできる最良のことであり、身体を養うのに一番良い薬であり、頭脳を教育するのに最も強い力であり、智慧を発展させるために一番良い書物です。とても素晴らしい車を持ったり、とても大きな真珠を手に入れたり、それがどんなに素晴らしくて、大きな真珠で、高価だとしても、あなたのメディテーションの時間ほどの価値はありません。メディテーションは全宇宙において自分自身にしてあげることのできる最もすばらしい宝物なのです。分かりますか? ある修行仲間が言ったように、メディテーションは自分を養う休息であり、あらゆるすばらしい宝石であり、自分を美しくするのです。そのようなことを望まない人はいるでしょうか。頭脳は「宝物」と聞くと「OK!」と言います。あるいは「休息」と聞くと「OK! 私は休息が好きです。働くのは好きではありません。リラックスしましょう。OK、いつでもしていいですよ」と言います。それはただ頭脳の問題なのです。

  頭脳は、ただ「善と悪」、「白と黒」を区別しているだけなのです。働くのは大変なこと、つまり「仕事」と聞くと「ああ、いやだ」「もう一日中働いています」「いやだ、いやだ、いやだ」と言います。しかし、あなたが「よろしい、休みましょう」と言うならば、大丈夫でしょう。頭脳は、「善と悪」「休みと仕事」が何なのかを良く分っています。それで言ったとおりに頭脳は理解するのです。頭脳を教育しなければなりません。細胞も言ったことを聞きます。良いと言ったら、それはOK、悪いと言ったら細胞もそのように考えます。ですから仏陀は「すべては心から造りだされる」と言ったのです。良いことを話し、良いことを考え、そのように心を造るのです。そうすれば、否定的なものを肯定的なものへと変えられるでしょう。細胞に肯定的なことを考えるよう教えなければなりません。良いことを考えたり話したりすれば、心と身体、億万個もの細胞が聞いているのです。ですから私は「自分自身が自分のマスターだ」というのです。私は必要ではありません。しかし自分をどのように教育するのかを忘れてしまっています。一日中、否定的な力に引きずり下ろされてきたし、つまらないことを聞いてきました。そして頭の中にそれをすり込んできています。頭脳に聞かせるとそのように考えます。ですから私は言ってきたのです。「悪いことを聞いたり、考えたり、話してはいけません」と。それが、心、口、意をきれいにするということです。悪いことが聞こえてきたら、すぐに聞くのをやめ、それを投げ出しなさい。すでに聞いてしまったならば、自分の心に言いなさい。「それは真実ではありません。彼女は間違っている。彼女の話を聞いてはいけない」と。自分自身にそう言うと、心は「ああ、これは間違った情報だ。投げ捨てよう」と思います。なぜなら、いったんその情報を受け取ってしまえば、心はこの情報は正しいと考えて記憶し、あとで口に出して言うことになります。人生のあらゆる善と悪というものは、自分で造りだしたものなのです。良いことを言うと、心はそれを受け取り「OK、それは良いことだ」と考えます。悪いことを話すと、心はそれを聞いて「OK、それは悪いことだ」と思います。ですから、自分のマスターは自分以外の誰だと言うのでしょう。たとえば飲みものがほしい時、水を取るように手に命じるのは自分自身です。それとも自分の手で水を取るのに隣の人に頼みますか? お腹が空いた時、食べ物を探すように言うのは、自分の心ではないですか? あるいは、仕事に行きたい時、自分でバスを探すか、あるいは会社まで自分で運転しなければなりません。自分が自分自身の支配者なのです。ですから自分自身を道徳的、肯定的に教え導くべきなのです。そうすれば生活は毎日より良くなっていくでしょう。人生の中で起こる悪い事柄はすべて自分自身で造りだしたものです。現在、造られたものでなければ、過去において造られたものです。そのような悪いことをここに置いたままにして、きれいにするのを忘れてしまうと、後になって危害を加えにやってくるのです。ですから他の人を責めてはいけません。今後、何か悪いことを聞いたらすぐ自分自身に、この情報は真実ではない、否定的だ、良くないものだ、自分にも他人にも役に立たないことだ、と言わなければなりません。聞くことをやめて、直ちにそれを取り除かなければなりません。夜、家に戻ったら聖名を唱えてすべて洗い流すのです。そして朝はたくさんの蓄えを出かける前にポケットに入れておきましょう。ですから、朝メディテーションをして、外から家に戻って、ポケットの中に残ったゴミがあれば、それを洗い流すために夜もメディテーションをすべきなのです。自分をきれいにすればするほど良いのです。ポケットに余裕があればあるほど良いのです。そうすれば、多少ゴミに接触したとしても、直ちに自分をきれいにすることができます。それでゴミを家に持ち帰る必要がなくなるのです。


甘露法語

習慣から脱してカルマを乗り超える


カルマは常に罪悪感によって作り出されるのではなく、習慣からも作り出されます。頭脳は私たちを騙します。似たような状況を見ると、頭脳はスイッチを押して同じことを放送し、同じ反応をします。ですから、私たちは明確に考えなければなりません。何かが思うように行かない場合や不愉快な時、あるいは何かの災難に遭遇した時、私たちは必ずそれを乗り越えるべきで、再びそこに引っ張られてはいけません。習慣に縛られてはならないのです。ただそれだけです。こんなにも簡単なことなのです。


~スプリームマスター チンハイ  フォルモサ・西湖 1991.6.28 



マスターの講義

我執と観音


スプリームマスター チンハイ フォルモサ・西湖 1989.4.29 (中国語)



我執は習慣から来ている


  我執はどこから来るのでしょうか? 我執は一種の個性、個人の心の状態とも言えます。個性はどこから来るのでしょうか? 個性など、たいしたことではありません。それは本当の自分でもないし、悟りを開いた後の神性でもなく、単なる特性にすぎません。個性は習慣から来ていて、この習慣は長い間にわたって収集してきたものです。私たちは生まれて来ては人間になったり、動物になったり、あるいは天人になったり、地獄の衆生になったり、家畜になったり、または悪魔になったりしますが、そのたびに、ある習慣を持ちます。どんなものにも独特の習慣があり、私たちもそれを一緒に身に付けるのです。

  たとえば、トラになれば当然凶暴になります。毎日獲物を捕りに行ったり、動物を殺したりというような生活を送るのです。その後、往生してトラの状況から離れた後で、すぐに人間になると、私たちにはまだ少し恐ろしい性質が残っています。怒りっぽくて、肉をたくさん食べるのを好み、非常に凶暴で、人に合わせることや人を許すことが簡単にできず、けんか好きで、ささいな事を大げさにします。

  もし、私たちがトラの命を終えてから別の種類の動物に生まれ変わり、たとえば比較的善良な羊になって「メェー、メェー」と生活すれば、もちろんとても善良になります。私たちが別の動物になった場合、トラの性質がまだ内面にあるとしても、それを表わすチャンスがあまりないために、どんどん忘れていきます。そして、この凶暴な性質は減り、肉を食べたり殺生したりするのをやめ、動物の性質や殺生する性質は少なくなります。羊の体を失った後で再び羊に生まれたとすると、さらに善良で、また「メェー、メェー」と鳴く、おとなしい一生を送ります。

  もし、また羊の生活から人間に生まれ変われば、当然その人はとても優しくて善良に見えますが、それほど羊と変わってはいません。少し恥ずかしがりやで、比較的従順で、とても親しみやすく、何を食べても簡単に満足して、草を食べるのがわりと好きかもしれません。出かけて行って野菜や草を探して食べます。ですから、私たちは人それぞれの個性の違いを見ますが、それは収集した習慣が違うからなのです。

  万が一、私たちが動物になって、トラとして死んで、またトラになって、またトラになって、またトラになるか、あるいは何か猛獣か、狼か、蛇になり、その後再び人間になったとしたら、あぁ、この性質はほとんど鬼と変わりありません! それで、とても凶暴な人を大勢目にするのです。何の理由も道理もなく、非常に凶暴で、何を話しても通じません。それは、その人が動物から人間になったばかりだからです。体を取り替えたばかりで、何回も動物をやってきて、しかも凶暴な動物だったせいなのです。しかし、これも偶然ではありません。そうでなければ、どうして誰もがみな動物に生まれ変わらないで、その人に限って続けて猛獣にならなければいけないのでしょうか? それは、おそらくその人が猛獣になる前に多くの悪い原因を作ったからです。たとえば、たくさん殺生をしたとか、あるいは因縁に迫られてそのような状態になってしまい、その後、非常に暴力的になってしまったからです。 

  私たちも知っているように、牢獄には閉じ込められている犯罪者がいます。元々、政府は彼らを教育し、悔い改めて善良になる機会を与えようとしているのですが、結果は、閉じ込めれば閉じ込めるほど悪くなります。腹を立てて、方法を考えて逃げ出してしまう人もいます。外に出るとまた復讐したりして、ますます重い罪を犯し、ますます逃げられなくなります。その人は刑務所の中で何か不愉快なことがあったのかもしれません。誰かがその人に良いことをしてあげようとしても、悪いことと誤解してしまいます。時には劣等感のため、本来警察は誰に対しても平等なのに、自分には特別恐ろしい扱いをしていると思い込みます。そして、それがずっと心の中に残って、外に出て復讐しようとすればするほど犯罪は重くなり、刑もさらに重くなり、重くなればなるほど恨みがひどくなり、そしてどんどん堕落していきます。そして最後には本当にどうしようもない、あるいはとても修復しがたい人間になってしまうのです。

  私たちが凶暴な獣になった時、カルマはとても深いのです。こういう状況に陥った場合、もし修復も後悔もせずに引き続きさらに凶暴なことをすれば、ずっと動物のレベルに落ちたままで、その後、再び人間になるのは容易ではありません。たとえなれるとしても、非常に多くの生を経なければなりません。

  私たちはトラになると、トラの性質、凶暴な行動と習慣を集め、私たちの磁場は凶悪な雰囲気になります。そして人間になった時には、私たちの磁場、または、いわゆるアラヤ識にすでに記録されています。ここは過去のあらゆる生活を専門的に記録する所で、たくさんの事が記録されているため、同じような状況にぶつかると、すぐに反応します。つまり、誰かが、あるいは何かの状況によってその人の気持ちを刺激すると、その性質がすぐ出てきて、自分は人間であって、トラではないことを忘れてしまうのです。

  私たち人間がそのような状況を避けたいのなら、自分を見て、何か動物の性質に似ている点があったら、カルマが非常に深いことがわかります。カルマとは何でしょうか? 私たちはこれまでにとても多くの習慣を収集して来ています。輪廻している時にもたくさんの凶暴な行動を集め、それが一つの記録になります。つまり録音テープのようなもので、ボタンを押すと再生されます。ボタンを押すとはどういう事でしょうか? つまり、そのような機会や場面にぶつかった時に、その習慣が自動的に出てくることです。ですから、時々私たちは人に対して非常にひどい対応をしますが、なぜなのか自分ではわかりません。これは、そのボタンを押したからなのです。相手の言葉を過去に聞いた経験があり、当時、その言葉で非常に腹が立ったからです。それで、今また同じことを聞くとすぐに腹が立つわけです。また、前世で人や動物だった時に、誰かが罠を作って私たちを捕まえようとしたとすると、現在、それと似たような罠や形を見ると、どきっとします。自分ではなぜそのような箱を怖がるのかわからないのですが、見た目が前世で遭遇した罠と同じような箱があると、怖くなったり、嫌だったりするのです。ですから、自分の家の家具は丸いものが好きな人がいるかと思うと、四角いものを嫌う人がいたり、三角のものを一番好む人がいたりしますが、これはすべて前世の印象と関係しているのです。

  何事につけ、私たちの好き嫌い、嫌がったり好んだりする状態を我執と言います。「私」は絶対にこうでなければ嫌だ、これは「私」の好みだ、というのを「我執」と呼ぶのです。「我執」は個性です。「私」の習慣はこうである、「私」の考え方はこうである、「私」は変えられない、変えたくない、あるいは「私」はこうだから変えない、そういうのを我執と言うのです。我執とは、つまり個性なのです。ちっとも神秘的でもないし、不可解なことでもありません。


             観音の振動力だけがカルマを洗い落とせる



  そういったカルマがどんどんひどくなっていくのを避けたいのなら、自分の習慣を避ける必要があります。それを再び発生させないようにするのです。発生するとこの習慣はさらに深刻になり、私たちはより怒りっぽくなります。たとえば、前世で誰かに無実の罪を着せられ、罪も犯していないのに叩かれて痛い目にあったり、権力で抑圧されたりしたとします。その後、今回生まれてきて、私たちを抑圧したり、叩こうとしたりする人に出会います。しかし、今生の場合は、相手には正当な理由があります。実は私たちが誤りを犯したからで、その人が私たちを抑圧するのは正しいことなのです。ところが、前世で誰かが私たちに無実の罪を着せて抑圧したため、私たちはそういう事を嫌がるわけです。ですから現在似たような状況に遭うと、私たちは耐えられず、復讐しよう、反発しようとして再び恨みがつのり、それが憎しみの雰囲気をさらに深く、強くさせ、やがて私たちの憎しみの個性となってしまうのです。それが我執です。ですから、こういった状況を避けたいのなら、誰かに復讐したい時は、すぐにこう思うようにします。「復讐に復讐をして、いつ終わりになるのだろう」

  私たちは何かしたり、新しい思想を学んだりするたびに、脳の内部には別の通路のようなものが出来上がり、新しい材料はその通路や箱の中に置かれます。ここには憎しみ、そこには愛の心、あっちには嫉妬心、あそこには名利心を置きます。それぞれの場所に違う性質があり、習慣が多ければ多いほど、脳内の箱や通路も多くなります。

  元々、箱や通路はひとりでになくなる事もある、非常に単純なものです。もし中に何もなければ、それらは自然に連なり、やがてなくなってしまいます。しかし、私たちの脳内には灰白質と呼ばれる灰色の部分があり、通路や箱の中に詰まっています。私たちが発見したばかりの新しい考えや新しい行動、新しい習慣はすべて灰白質の中に記録され、空いている通路を満たすのです。記録専門のコンピュータのようなものです。

  私たちは、身に付けたばかりのものや性質を洗い落とすことは、決してできません。だからこそ観音法門を修行して悪い習慣を中で洗い落とさなければならないのです。他に洗う方法はありません。よく洗脳という言葉を耳にしますが、言葉で洗脳するのでは、まだ不十分です。私たちの頭脳は小さくても何でも記録できます。どんなに記録してもかまわないのですが、そこが面倒なところです。たくさん記録しすぎると、洗い落とすのが間に合いません。毎日の雑念は、すべてあまりにも多くの物事を記録しすぎたからなのです。

  ですから、仮に今、私が言葉でみなさんを洗脳しても、ただ単にたくさんの通路や箱を増やすだけで何の役にも立ちません。中はすでに古い先入観と考えで一杯なのに、今、新しいものを加えても、二つが混ざってしまい、何にもならないのです。古いものはそのまま働き続け、新しいものも発展し続け、さらに複雑になってしまいます。

  ですから私は「修行に言葉が要らないと言うのは本当です」と言うのです。私は観音法門を伝える時、何も話さないし、何も付け加えません。みなさんと話をするのは、みなさんの中に元々もつれや問題があるからです。それでついでに説明して、みなさんの心のもつれをほどくのです。そうでなければ私は話しません。どうしてそんなに話さなければならないのでしょう? それは、みなさんがすでにあまりにも多くを知っているからです。たとえば、みなさんが仏教徒でなかったならば、涅槃経も金剛経も知らないので経典を使って私に質問することはできませんし、私もたくさんの言葉を使って説明する必要はないのです。私が多く話すのは、みなさんが多く話すからです。みなさんがたくさんのゴミを収集しているので、私は多くの方法を使って、そういうゴミを取ったり燃やしたりしなければならないのです。

  ですから観音法門は言葉ではなく、振動力なのです。この電流、神のパワーは私たちの雑念と間違った考えを洗い落とし、しかも、内面に通路や箱を増やすことはありません。それはこういう事です。もし何かの思想によって別の思想を解決しようとすれば抵抗が起き、それは決して古い思想を洗い落とせることにはならないのです。ただ単に別のものを加えるだけです。結局、ますます混んでしまい、私たちもますます悩んでしまいます。ですから偉大なマスターたちはこう語っています。「学問が高く、知識が多ければ多いほど、道は得難い」。中に物をたくさん置いたうえ、ぎゅうぎゅう詰めにするので、空間はいっぱいで何も発展できません。良いも悪いも一緒で、良いことも発展できず、悪いことも洗い落とせずにますます混雑してしまいます。ですから、もうみなさんはわかりますね。どうして学問が高ければ高いほど、悟りを開くのが難しくなるかということを!

  それで観音法門こそが理屈にかなっているというわけです。観音法門は禅問答ではないからです。何かを唱えてどんどん加えていくのではなく、私たちは洗い落としています。だからこそ私はみなさんに言うのです。聖名を唱え、観光するように指導しているけれども、「観音」を実践しなかったら、役に立ちません、と。なぜなら、聖名を唱えるのも観光するのも、別のものを加えることだからです。その加えたものは別のものをコントロールできるので、私たちに俗世間の悩みを忘れさせます。たった今、誰かに腹を立ててかたをつけよう、相手に悪態をつこうと思っても、聖名を唱えればすぐに憎しみは消えてしまいます。つまり、このすばらしい聖名を使って私たちの雑念をコントロールし、私たちがずっと困ったままでいることのないようにするのです。しかし、それは雑念がなくなると言うことではないし、聖名を唱えたり、南無阿弥陀佛と唱えたりすれば雑念が洗い落とされるわけでもありません。そうではないのです。私たちは毎日たくさんの聖名を加えていくため、この聖名で雑念をコントロールすることはできますが、その後、それを「観音」で洗い落とさなければなりません。聖名さえも洗い落とさなければならないのです。(拍手) みなさんがわかってくれて、私はとてもうれしいです。

  だからこそ、私は言うのです。どんな人でも、もし毎日「観音」を修めていないのなら、その人は完全な悟りを開いたとか、スプリームマスターになったと主張することはできない、と。これはみな、人をだますことになります。完全に悟りを開けば、もうメディテーションは必要ないと言う人もいます。これは普通の種類のメディテーションをしないことを指しています。そこで、頭を悩ませて聖名を唱えます。二つ唱えたら他のものを忘れ、一つ唱えたら四つ忘れ、第一を唱えたら第五を忘れ、あるいは雑念と戦い、「ああ、なんて雑念が多いんだ。神よ、私はあの人が大嫌いです。神よ、ナンマイダ、ナンマイダ、ああ、あいつは本当に嫌なやつだ。ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ…あー、私は絶対に明日、あいつとかたをつけるぞ。ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ…」。まあ、本当に苦しい戦いです。これがいわゆるメディテーションで、私たちの心を訓練し、雑念と憎しみと習慣を抑えるに過ぎないのです。



            悟った人は常にメディテーションしている




  悟った後はメディテーションをしない、ということはありません。ただ、それほど必死になる必要はなく、メディテーションをしているけれども、その形はとっていないのです。それで「メディテーションをしない」と言うのです。つまり、私たちが今メディテーションをした場合は、していることを自分でわかっていますが、悟った人はメディテーションをしていても、していると認識していないのです。努力したり、必死になったりしません。老子の言う「無為を為す」ということです。老子の考えは、毎日その辺に座っていて世界に無関心で、国家の大事に無頓着で、家族の面倒を見ず、体を洗わずに衣服も汚く、食事もしないということではありません。これでは、無為を為す、ではなく、気が狂っているのです。(笑い) ですから、多くの人は、悟ればもうメディテーションをしなくていいと聞くと、一日中賭け事をしたり、カラオケをしたりしますが、これは魔になるということで、否定の「否(フォー)」になることです。阿弥陀佛の「佛(フォー)」ではありません。

  ですから、誰かメディテーションをしていない、あるいは聖名を唱えていない人を見たら、その人は道理をわきまえていないことがわかります。これは最も低い阿修羅(アストラル)のレベルです。だまされているのです! 悟った人は座らずともメディテーションをしているのです。なぜでしょうか? この世界を加護し、自分の弟子を加護しなければならないからです。私たち凡人でさえメディテーションによって大変な効果を得られるのですから、悟った人がメディテーションをしたならば、言うまでもありません。ですから、悟った人は自分の責任を全うしなければならないのです。悟った人がこの世界に来て、メディテーションをしなくていったい何をするというのでしょうか? それに、自らも精神と活力の回復が必要なのです。メディテーションをすると、体は非常に快適になり、気分も良くなりませんか? 私たちは、何かのレベルに到達したいと思わなくても、すべてを得ているのです!

  食事をすれば体が健康になるわけではありません。ですから食事をしても体が弱い人はたくさんいます。しかし、1時間か2時間メディテーションをすれば、とても愉快になり、一日中仕事をしても疲れません。それで悟った人も自分のパワーを回復させるためにメディテーションが必要なのです。食事では体の養生には間に合いません。もし普通の人ならば、いくらたくさん食べてもあれほど膨大な量の責任を負うことはできないでしょう。ましてや、悟った人は食べる量がとても少なく、そのうえ多くの責任を負わなければならないのですから、メディテーションをしないはずがありません。

  ただ、私たちのように必死になったり、大きな努力を払ったりはしていません。悟った人のメディテーションはとてもリラックスしたもので、ちょっと座ればすぐに無念無想の境地に入り、座らなくてもそうできるのです。24時間その状態にいるうえ、いつでもメディテーションすることができます。これを「メディテーションをしているけれども、していない」「メディテーションが修行のすべてではない」と言うのです。たとえこうなっても、悟った人はメディテーションをします。弟子たちに手本を示すためです。さもなければ、悟ればもうメディテーションをしなくても良いとみんなが思い込んでしまい、食べたり、飲んだり、遊んだりして、そうなると誰もが同じようになり、誰でもでき、メディテーションをせず、怠け者までもが自分は悟ったと言うのです。たいした言い訳ですね。だめですよ。

  みなさん、釈迦牟尼佛は悟った後も毎日メディテーションをしていたことを覚えていてくださいね。それで、経典には釈迦牟尼佛は毎回禅定を終えて弟子たちに教えを説いたと記載されているのです。トイレから出て来て話したとか、カラオケや歌や踊りや賭け事が終わった後に出て来て話したとは書かれていません。そんな事はありませんね。それで、お経を読んでも意味がわからなければ、自分にとって害になるのです。修行はうまくいかず、誇張し、名利心が大きくなって、自分を傷つけてしまうのです。



              修行に最も重要なのは謙虚な心




ですから、修行をするうえで最も重要なのは、謙虚な心です。私たちの忍耐力をテストするなら、誰でもみな先生であり、私たちを叩いたり、叱ったりする人も先生です。私たちの忍耐力を訓練し、考える機会を与えてくれます。それも非常に良いことです。別に悪くはありません。その行動が人々を傷つけることになれば、やめさせなければなりませんが、ただ私たちに試練を与えているのなら、最後まで続けさせます。私たちは試練を与えられれば与えられるほど良くなります。黄金のように、火中で練れば練るほど輝きます。純金は火を恐れない(意思の固い人は試練に耐えられることのたとえ)のです。私はみなさんに話して聞かせるだけではありません。自ら実行しています。しなければならないのです。なぜなら、みなさんの手本になるべきだからです。ですから、外の人々にあんなに非難されても私の心が動じないのはなぜかと質問しないでください。そんな事くらいに耐えられなくて、何に耐えられるでしょうか? 誰に忍耐ということを教えられるでしょうか? 人を傷つけたり害を与えたりしたなら、やめさせる方法を考えますが、私個人を傷つけるだけならかまいません。
さあ、みなさんは我執がいったいどういうもので、また、どのようにして消せるかわかりましたね。我執をどんどん強くさせてはいけません。壁のように私たちを閉じ込めて、それを自分自身と信じ込み、自分はこんなふうだと思う、それこそが我執です。私たちはこの様に続けていくと、同じ過ちを犯してさらに悪くなり、誰かが止めてくれなければもっとひどくなります。それが良いことと思い込み、ますます喜んで、最後には習慣になります。喫煙や飲酒と同じです。体に良くないとわかっていても、飲めば飲むほど習慣になり、吸えば吸うほど深刻になります。
それで忍耐を学ぶことが必要なのです。世々代々収集してきた習慣をさらに加えて強くならないようにしなければ、直す方法もなくなってしまいます。すでに多くの悪い習慣があるのです。もし減らさずに、さらに増やしていったら、いったいどうすればよいのでしょう。たとえ減らしたくても方法はないのに、いつになったら減らせるというのでしょう? すでにたくさんありすぎて、たとえ今、これ以上増やすのを免れようとしても間に合わないのに、ましてや世々代々収集した固い習慣と伝統を洗い落とすのですから、なおさらです。だからこそ、超世界のパワー、つまり、この観音の振動力を使ってすばやく洗い落とすのです。一般的な洗脳では役に立ちません。観音することこそが、本当の洗脳です。
みなさんは私に、どうすれば我執を避けられますか? と尋ねます。私はたくさん観音することを勧めます。気づいた時はなるべく反省して、自分をコントロールします。習慣をさらに増やしたり、繰り返したりしないことです。避けられることは、やめます。自分の我執に気づかなければどうしようもなく、さらにひどくなります。たくさん観音をすることが必要です。たくさん観音して、たくさん観音して、そうすれば自動的にきれいに洗い落とせます。他に方法はありません。(拍手) さあ、わかりましたね。観音法門は本当にすばらしいですよ。そうでなければ、私たちの習慣は多すぎて、決して洗い落とすことはできないのです。


笑い話


年長者は誰もいない


スプリームマスターチンハイ フロリダ アメリカ  2001.12.28.(英語)ビデオテープNo.735


  同じアパートに住む女性たちがトラブルを起こし、裁判所にお互いの苦情を申し立てに行きました。全員が一斉に話し始めたので、裁判官が言いました。「全員の苦情を一度には聞けません。一人ずつ話してください。まず年長者の方が話してください」。すると、室内はまったく静かになりました。証言がなくなったので、その問題は消え失せてしまいました。

 


 

永遠の21歳


スプリームマスターチンハイ フロリダ アメリカ 2001.12.28.(英語)ビデオテープNo.735


裁判所で裁判官が証人に尋ねました。「あなたは何歳ですか? つまり、本当の年令は何歳ですか? いいですか。あなたは誓いを立てたのですから、真実を述べてください」。女性は答えました。「私は21歳と数ヶ月です」「はっきりしてください。数カ月というのは何ヶ月ですか?」すると彼女はこう答えました。「118ヶ月よ」

 


智慧の真珠


観音のパワー


スプリームマスター チンハイ アメリカ・ハワイ・ホノルル・禅四 1993. 10.22.(英語)ビデオテープ No.383

私たちは、観音してこそあらゆる意識段階を通過できます。けれども、光のメディテーションをしている人はたくさんいますが、音と接触するレベルに到達できず、人生はあまり変化しないのです。公案(禅問答)の意味を問うような知的レベルの法門や、ランプに集中する法門など多くのメディテーションでも光を見ますが、彼らの人生はあまり変化しません。なぜならいくつかの光のレベルは魂のレベルを向上させる音のレベルよりも低いからです。ある人々は光のメディテーションを行い、サマディー、あるいは極度に集中した状態に入った瞬間、自動的に音流に接触することがあります。その時点においては、彼らも観音をしていることになります。その時、光と音があります。しかし彼らは音を得る楽な方法を知りません。彼らは有能な友人や、資格を持ったガイドの手助けにより、音流と接触したことがないからです。私たちは方法を知っているので簡単です。今日では「ノウハウ」は成功への鍵ですが、メディテーションの修行においても「ノウハウ」はあります。ですから本当のサマディーに入ったことがなかったとしても、音流の恩恵を少し味わっているので、身体や魂を回復させるのに役立っているのです。


スプリームマスター チンハイ メキシコ・メキシコシティー 1998.5.23.(英語)ビデオNo.627

私たちがこの世の悪習にうんざりしたり、生き残るための終わりのないもがきに疲れたり、精神的な疲労でまいってしまった時にはいつでも、しばらくの間座って観音をしてみます。そうすれば私たちは魂の中を流れる絶え間ない幸福を感じることでしょう。


霊性と科学

情緒知能を越え、人生を成功させる


フォルモサ・桃園 詹勝傑

ハーバード大学教授のダニエル・ゴールマンは脳と行動科学の専門家で、1995年に著書「情緒知能(Emotional Intelligence)」を出版して一大センセーションを巻き起こしました。国際的なベストセラーとなったこの著書では、人生において成功するために不可欠なのは、知能指数(IQ)ではなく情緒知能指数(EQ)であることが強調されています。

  EQとは、感情を制御する能力のことです。著書では、大脳の側頭葉深部にある神経核(神経細胞の集合体)の複合体である扁桃体の中に存在する、情緒記憶中枢の発見について言及しています。そこは、さまざまな外部環境により、肉体に情緒反応を瞬時に起こさせます。前頭葉の大脳皮質は、扁桃体や他の領域からの情報を受けて、一歩進んだ高度な反応を起こしますが、前頭葉が修正する前に扁桃体が情緒反応を起こすこともあります。私たちの日常生活における習慣や感情は、このようにして生まれるのです。過去の体験の記憶はこの部位に保存され、ある状況に遭遇した時、脳は過去の情報に基づいて反応し、私たちにどうすべきか物事の善し悪しを教えます。また、同じ刺激が繰り返しあると、大脳ではある刺激に対して神経の伝達回路がより多く形成され、反応がより早くなります。世間で「長年の習慣はなかなか変わらない(三つ子の魂百までなど)」と言われている理由はこのようなことだったのです。

  著書には、薬物治療や行動療法など、感情を制御する方法についても多く書かれています。しかし、必ずしもうまくいくとは限りません。マスターの早期の講演「我執と観音」の一説で、はっきりと述べられていますが、古い習慣を矯正するためには新しい考えや概念を用います。現在、一般的には行動療法や心理療法などが使われていますが、それはただ、脳の中で古い情報を新しい情報に取り替えているにすぎず、この新しい情報は、新たな執着となります。もし、ある日それも正しくないと判断されれば、また別の新しい概念と取り替えなければなりません。このようにして脳は新旧のさまざまな概念でいっぱいになります。ですから、古い習慣や執着を本当に改正したいならば、最善の方法は観音をすることであり、高い振動力によって脳の中に蓄積された習慣や情報を完全に洗い流すことであるとマスターは語っています。

  これはやや抽象的に聞こえますが、現代物理学の観点から説明することができます。量子力学の原理によれば、すべての物質やエネルギーはさまざまな周波数で振動している量子により形成されています。思想もエネルギーの一種なので、この量子力学の概念は、「すべては音流により創られており、あらゆるものは周波数の違いにより、さまざまな姿となる。見えるものもあれば、見えないものもある」というマスターの教えと一致します。低い周波数のものが高い周波数のものと接触すると、低い方が高い方に同調して、高い周波数になります。否定的な考え、悲観、落胆、その他の好ましくない考えは低い周波数を持っており、一方、幸福、喜びなどの心情は高い周波数を持ちます。脳神経細胞に好ましくない情報が記録されると、振動力は低くなりますが、このような時でも高い振動力を持った音流に脳神経細胞が接触すると、その周波数は自然に引き上げられ、低い周波数の情報も自然に消えてしまいます。つまり、メディテーションをするとリラックスしたり、大変リフレッシュしたりするのは、こういうことだったのです。

  どうりでマスターが「観音法門は万病の薬」と述べているはずです。万物は、音流によって生まれているのですから、治療や矯正が必要ならば、当然、音流にゆだねるのが最良なのです。


マスターが話す物語

智慧は人類が万物の霊長であるための秘訣


スプリームマスター チンハイ 日本 1991.10.26(中国語)

  インド人の農夫が子供と田んぼを耕しに出掛けました。仕事を終えると、空は暗くなりかけていました。彼は子供に言いました。「わあ、空がもうすぐ暗くなる。いかん、いかん。早く片付けてさっさと帰ろう。急いで帰るぞ!」子供が言いました。「えっ! あせることはないよ。家までは遠くないし、帰り道もわかっているでしょう。そんなに緊張してどうしたの」農夫は言いました。「だめだ。お前は知らないんだ。私は何も怖くない、トラもライオンも怖くないが、『夜』が一番怖いんだ。『夜』が来ただけで、力が入らなくなってしまう。『夜』が一番怖い。怖くて怖くてたまらないんだ」

  ちょうどその時、一頭のライオンがそばに隠れてこの話を聞いていました。「この『夜』とはいったい何だろう。それが俺より怖いはずがあるわけがない。俺こそむしろそれを試さなければならない」とライオンは思いました。あろうことかライオンよりも怖い『夜』とはいったいどんな種類の物なのかを調べようと、農夫に近づきました。

  この時、空はすでに暗くなっていました。農夫は老眼なので近くの物がはっきり見えず、ただ一頭の動物が自分のそばに駆け寄って来たのが見えただけでした。彼は、それが先ほどいなくなったロバだと思い、数回叩いて言いました。「お前を一日中探してたんだぞ。どこへ行ってたんだ、今頃やっと帰って来て!」ライオンは思いました。「おしまいだ! 俺は何てバカなんだ。駆け寄って『これ』に近づくなんて。さっき俺を叩いた奴こそ『夜』というものに違いない。なんて恐ろしいんだ。いったいどうすればいいんだろう」ライオンが考えていると、農夫はまたライオンを数回叩き、急いで帰るようにせき立てました。ライオンは怖くてたまらないので、仕方なく農夫について帰りました。

  家に着いた時には、空はさらに暗くなっていました。農夫はライオンをロバだと思っているので、それを屋外の片隅に繋いでから、中へ入って行って眠りました。ライオンはそこで、一晩中腹ペコで寒い思いをしました。それに恐ろしいことに、翌朝になったら『夜』が自分をどうあしらうのかもわかりません。ライオンは農夫こそが『夜』だと思っていたのですから。

  翌朝、空がまだ薄暗い頃、農夫はすでに起きていました。そして、『ロバ』を連れて耕作へ出掛けました。道の半ばまで来た時、ちょうどもう一頭のライオンが通りかかりました。そのライオンはこのライオンがおとなしく農夫の後をついて行くのを見て、おかしくなりました。そこでこのライオンに近づいて尋ねました。「君は何をしているんだ。どうしてその人の後ろについて歩いてるんだ」。繋がれているライオンは言いました。「シッ、そんなに騒がないで。早く離れて! 君は前を歩いている奴こそが『夜』というものだということを知らないんだ。彼はとても恐ろしいんだ。きのう、俺はあいつに打たれて、それから一晩中繋がれて、腹ペコで寒くて、今は俺をどこへ連れて行こうとしているのかもわからない。早く逃げるんだ。さもないと、君の命も危ないぞ」

  もう一頭のライオンはこれを聞いて、言いました。「君は本当におかしい、バカだよ。君はライオンで、動物の王様なんだよ。騙されているんだ。君が今一声彼に吼えれば、恐ろしいのはいったい誰なのか、すぐにわかるよ」。案の定、このライオンの言う通りに大声で一声吼えると、農夫が近寄って来ました。もう空は明るくなっているので一目でライオンとわかります。「ワッ!」必死で逃げました。そして、このライオンは自由になりました。

  この物語が言おうとしているのは、私たち人間には智慧があり、またとても大きなパワーと地位がありますが、もし、私たちがおろかで、それを知らず、また魔王について行くなら、カルマについて行くならば、解脱できるわけがない、ということです。もし、一つの魂がやって来て、その魂は自分が誰であるかをはっきりと認識していて、恐れることをせず、どうすべきかを教えてくれたなら、私たちは解脱します。これこそが、明師ということです。

  もう一つオゥラックの物語があって、よく似ています。ついでにみなさんにお話ししましょう。ある農夫が牛を使って、半日かけて田を耕しました。農夫も牛も疲れましたが、耕しきれていなかったので、農夫は牛の動きを早めようとして叩き続けました。牛は喘ぎ、よだれを垂らし、舌もだらりと伸びて息もつけないほどですが、まだひたすら仕事をしなければなりません。

  そばに一頭の虎がいて、ちょうど食べ物を探していました。虎は農夫と牛に気が付きましたが、まだどちらを先に食べるか迷っていました。しかし、この様子を見てちょっと好奇心がわきました。「おかしいな。どうしてこんな事になっているんだ」そこで、虎は食べずに、まず近くに立って観察しました。虎は、牛はあんなに大きくてたくましそうなのに、どうしてずっと小さな農夫の言うことを聞き、命令されるままに働き、叩かれても敢えてなんの反応も示さないのかと思いました。虎はとても不思議に感じましたが、裏に何か秘密があることを恐れて手を出しませんでした。

  しばらくして農夫が手を休め、食事と昼寝をする場所を探しに行ってしまうと、虎はそっと牛の近くまでやって来ました。牛はこの時になってやっと少し休み、わずかの藁を食べることができました。虎は歩きながら、「あんなに哀れで、あんなに仕事が多くて、それに食事もこれだけだなんて。ああ、ぼくには食べることなどできないよ」と首を振りました。そして、牛の所まで駆けて来て尋ねました。「ごめんよ。気にしないでくれ。でも、聞かないわけにはいかないんだ。君はこんなに大きくてたくましくって、そんなに鋭い二本の角もあって、あの農夫を一蹴りで死なせることもできるのに、どうしてずっと彼の言うことを聞かなければならないのかい。半日仕事をして疲れ切っているのに、彼は君を叩いて、それでも君は働き続け、そして今やっと彼は短い休憩を君に与えて、それも、ただの枯れた藁をくれただけだ。君は自分をいったいどんな動物だと思っているんだい。どうして彼を恐れるのかい。彼は君の何分の一しかないほど小さいのに」。すると、その牛は言いました。「君は知らないんだよ。ぼくは彼よりたくましくて大きいけれど、彼は――あの小さな人は、とてもすごい武器を持っているんだ。だから、ぼくは彼の言うことに従わないわけにはいかないのさ。その武器は本当にものすごいんだ! 聞かないでくれ、もし聞けば、とっても恥ずかしくなるよ。ぼくたちにはこの武器がないから彼に負けてしまうのさ」

  虎はますます興味を引かれて、言いました。「お願いだ、どうかぼくに話してくれ。これまで聞いたことがないし、ここへ来たこともないし、こんな様子を見たこともないんだ」。牛はゆっくりと草を噛み、目を閉じて言いました。「ああ、君はそれを尋ねてどうするんだ」。虎はまた頼みました。「ぼくは勉強したいんだ。こんなチャンスは滅多にないもの。今後こんな状況に出合うチャンスがまたあるかどうかわからない。ぼくはいつも山の上にいるので、こんな経験や知識がないんだ。今日は危険を冒して下りて来たので、目にすることができたんだよ」

  この時、牛はやっと言いました。「君はとても誠意があるようだから、話すことにするよ。その武器とは、智慧だよ。人間にはこの智慧という武器があるので、ぼくたち動物がどんなに大きく凶暴で、たくましくとも、みな人間に支配されるのさ。君は知らないのか」。虎は言いました。「知らないな。聞いたことがないよ」。牛は続けて言いました。「さあ、もういいよ。じゃあ、ぼくにこの事で騒ぎ立てないでくれないか。一眠りさせておくれ」

  虎は長い間考えてから言いました。「いったいその武器とは何だろう。そんなにすごいなんて。絶対に見なければ。母さんはこんな話、したことがない。もし知ることができれば、ぼくはみんなよりすごいということになる。おばあさん、おじいさん、父さん、母さんよりもすごいんだ。だって、みんな誰もこんなものは知らないし、ぼくたちも、学校でこんな武器は習ったことがないんだから」

  そこで、虎はその場で農夫が戻って来るのを辛抱強く待ちました。彼はこれまでどんな動物にも負けたことがありませんから、内心、まだ完全には信じられませんでしたが、同時にわずかの恐ろしさもあり、人間に対してちょっと尊敬の念が湧きました。彼は合掌し、農夫に教えを請いました。「聞くところによると、あなたは智慧という武器を持っていて、それであらゆるものを支配したり、ぼくたちのような大きな動物を支配したりできるそうですが、どうか一目見せて頂けませんか。ぼくはこれまでそういう物を見たことがありません。それに、そう聞いても、まだ半信半疑なんです。あなたのこんな小さな体で、そんな大きな武器を装備して、ぼくたち大きな動物を支配できるわけがありません」農夫は言いました。「もちろんですよ。この武器はとても大きいので、いつも身に付けているわけにはいかないので、家に置いてあります」虎は言いました。「家に戻って持って来て、一目見せて頂くことはできませんか」農夫は言いました。「当然できますよ。しかし、あなたは私を騙しているんじゃないですか。あなたは本当に私の武器を見たいのではなくて、私を騙して家に帰らせ、そしてここで私の牛を食べようと思っているでしょう。あるいは、騙して牛を連れて行ってしまって、私が戻って来た時には、牛もあなたも見つからないというわけです。それでは、苦労をしてあんな大きな智慧の武器を持って来ても、そんなふうだったらどうするんですか」。虎は言いました。「そんな事はしません。私は本当に心からただあなたの智慧の武器とやらを見たいだけです。これまで見たことがないんです。お願いします。家から持って来て、ちょっと見せてください。本当に騙したりしませんし、あなたの牛も食べず、ここで待っています」。農夫は言いました。「いいでしょう。では、もし信じてもらいたければ、私に、あなたを木に縛らせなさい。そうすれば取りに戻ります。さもなければ、私が行ってしまって、あなたがここでやたらに何かしたらどうするんですか」。虎は言いました。「その通りです。早く私を縛り付けてください」手足を差し出し、農夫に藤の蔓で彼を木の幹に縛らせました。それから、農夫は行ってしまいました。虎はまた彼に言いました。「早く戻って来てくださいね」。やがて、農夫はすぐに戻って来ると、探して来た大きな棍棒で虎を叩きました。彼は言いました。「私の智慧はここだ」そして虎を叩き殺してしまいました。

  その時、牛は傍でその様子を見ていて、大笑いしました。頭を振りながら笑い、目の前にあった石にぶつかって歯を全部折ってしましました。それで、この時から牛には歯がないのです。これは私たちオゥラックの物語です。前のライオンの話にとてもよく似ていますが、意味はちょっと違います。

  ですから、私たち人類は本当に動物の長であり、とても光栄な事なのです。動物の王様になれます。本来、神は私たちに動物を「世話する」ように言ったのですが、結局、私たちは動物を「支配」したのです。ああ、本当に「とても光栄」ですね。これは私たちの物語です。お話はこれで終わり。あの「夜」の物語が一番かわいいですね。そうでしょう。


動物の有情世界

ベジタリアン・キャット―「ビッグヘッド」の物語


フォルモサ・台北 口述/劉美筠・記録整理/施 睿純(中国語)

  猫はベジタリアンになれるのでしょうか? 多くの獣医は「それはあり得ない。聞いたことがない。猫はベジタリアンになるくらいなら餓死した方がマシだと思うだろう!」と言うに違いありません。しかし、劉さんの家には、人から珍しがられる猫がいます。100%菜食の物を食べるというだけでなく、肉や魚のように生臭いにおいがする物は全く口にしないのです。以下はビッグヘッドと呼ばれる猫のすばらしい物語です。

  劉さんとビッグヘッドの出会いは神の手配でした。印心して以来、菜食をしていることや動物臭がいやなことから、劉さんはペットを飼っていませんでした。その日、彼女は新居に引っ越したばかりで、ひとまず整理が済んだ時に、アパートの階段をうろついている痩せた小さな野良猫を見つけました。そこで2、3日の間、皿一杯の牛乳とクラッカーを地面に置いてやりました。劉さんは家で英語を教えているのですが、ある日、授業の前にこの子猫が生徒について部屋に入ってきました。しかし、劉さんは清潔好きで、この毛の抜け落ちた子猫を敢えて世話する気になれず、子猫をドアから外へ出しました。その夜、彼女の家でグループメディテーションをした後で、参加者の一人が、この哀れな動物に救いの手を差し伸べるべきだと思い、子猫を引き取って育てることを彼女に提案しました。2日後、劉さんは、また子猫が階段をうろついているのを見つけたので、ドアを開け、猫に「あなたがもし私の家に住みたいのなら、私について来て菜食しなさい」と言いました。そして、心の中で10まで数えて、もし子猫が入って来なければドアを閉めようと思いましたが、8まで数えた時、思いがけず子猫は悠々と落ち着いた様子で家へ入ってきました。そして、この時から子猫は彼女の家の一員となったのです。

  この菜食の猫は一体何を食べるのでしょうか。きっと、みなさんはおおいに興味があると思います。キュウリ、アルファルファの芽、パパイヤ、柿、リンゴ、梨、セロリ、キャベツ、ミニトマト、菜食のでんぶ、クラッカー、さらには地面に置かれた鉢植えのゴールデン・ポトスさえも食卓に上ったことがあります。とりわけ好きなのはキュウリ、アルファルファの芽、それから甘酸っぱい食べ物ですが、ビッグヘッドのメニューリストはまだまだ増加中です! 特筆すべきは、ビッグヘッドは油っこくない物を食べられるということでしょう。生臭い味のする物を与えても全く食べないという、実に珍しい猫なのです! 猫には臼歯がないので食べ物をすりつぶせないというのは、周知のことです。それではビッグヘッドはどのように噛み砕くのでしょうか。それは、まず劉さんが食べ物を軽く噛み砕いてから一口大(緑豆程度の大きさ)にして手の上に置いて食べさせてやり、一度の食事に1時間かけるのです。始めたばかりの頃は、ビッグヘッドはまだ噛む強さをコントロールできずに、よく劉さんの指まで噛んだものですが、今では賢くなり、舌先を使って食べ物を口に入れることや、なるべく彼女を噛んで傷つけないよう気をつけるということを覚えました。この事から、動物には感情があり、しかもとても心が通い合うということがわかります。

  ビッグヘッドが初めて獣医にかかった時はまだ警戒心が強く、かなり凶暴でした。しかし3度目の時は、すでに穏やかで頭の回転も早くなっていて、獣医に協力することができました。獣医は最初、猫に菜食ができるとは信じていませんでしたが、後には笑いながら、ビッグヘッドはもうすぐ「道(Tao)」を得、さらにこのめぐり合わせによりマスターに会うだろうと言いました。全力を尽くした治療により、ビッグヘッドの毛の抜けた皮膚には長い毛が生え始め、また菜食のおかげで、一般のペットにある動物臭さが、体から完全になくなりました。

  ビッグヘッドは、とても霊性のある「観音猫」でもあり、修行仲間が劉さんの家に来てグループメディテーションをする時は、いつも静かに修行仲間の間を歩き回ります。ある人がメディテーションをすると、必ずビッグヘッドは彼の膝の上に座り、ピクリともせずに、まるで一緒にメディテーションをしているようです。グループメディテーションが終わってみなが帰った後には、賢いことに一人一人の座布団へ走って行き、上にちょっと座って加持力のおこぼれを頂戴します。さらに、ビッグヘッドは劉さんの目覚まし時計でもあり、毎朝鳴いて彼女を起こしてメディテーションさせ、寝坊させることなどありません!

  ビッグヘッドは、ベジタリアンになってからはおとなしくて人に好かれる性格に変わったので、大人も子供も喜んでビッグヘッドと遊びます。しかしビッグヘッドはとても敏感で、見知らぬ人が来るとすぐに身を起こして修行仲間の来訪かどうかをじっと観察し、それからようやく走り出します。以前授業に来た生徒がビッグヘッドをかまった時は隠れたりしていましたが、修行仲間の子供がビッグヘッドと遊んでいる時は、ぬいぐるみのようにおとなしく、子供たちがなでたりするのにまかせていて、本当にかわいい猫です。

  ビッグヘッドは劉さんの家で楽しく自由気ままに過ごしています。塵一つない床でスケートをするのが好きで、人がいない時などはうれしくて宙返りします。劉さんもビッグヘッドから愛の心や耐える心を、身をもって学びました。そして万物にはみな霊性があり、ただ違うのは、彼ら動物たちは人の言葉を話せないだけなのだということを体感しました。純粋なベジタリアンであるビッグヘッドは、ペットも菜食の餌を食べることができて、さらに菜食によって、より健康で、毛色も美しくなるというりっぱな証明となりました。みなさんは試してみたいと思いますか? もしかしたら、みなさんの家のペットが次のハッピーな菜食猫や菜食犬になるかもしれませんよ!

 

 

霊 犬  


文:観音使者

人のオーラが見える犬もたくさんいます。それで、ある人に対しては集中して吠えるのに、他の人には吠えない犬がいるのです。ですから、人によって違ったエネルギーを発しているのです。   ~スプリームマスター チンハイ

  2002年5月7日、バスでパナマの国境を通過した時のことです。乗客全員が、荷物をまとめて一列に並べるよう税関職員に要求され、続いて専門的な訓練を受けた犬が荷物に沿って往復して歩き、麻薬類が荷物に入っているかどうか検査しました。

  この犬は荷物ごとに近づいて匂いを嗅いで行き、一つひとつすべて検査をして、例外なくしっかりと責任を果たしていました。ところが、私の二つの荷物に差し掛かった時には、意外にも素通りしてしまい、匂いを少しも嗅ぎませんでした。一列に並んだ荷物を折り返して戻って来た時も同様に一つひとつの荷物の匂いを嗅いだのですが、私の荷物に対しては、やはりそうしませんでした。その場の他の人の荷物はとても真剣に残らず検査していたのに、二度も続けて私の荷物を調べなかったのでとても不思議に感じ、一体何が原因で、あの犬はあんなに落ち着いて、私の荷物を検査する必要がないと思ったのだろうと興味がわきました。もしあの犬がとても勘が鋭く、とっくに私の荷物は検査の必要がないと知っていたというのであれば、理にかなっているようです。私は確かに麻薬類を持っていなかったのですから。しかし、別の人の荷物もすべて関門を通過したのですから、彼らも麻薬類を所持していなかったことがわかりました。それにもかかわらず、訓練されたあの犬の検査を必要としたのです。私がたった一つ十分に理解できるのは、私の荷物の中にあったマスターの写真が光を放っていたのか、あるいは私の荷物には無形の記号があり、少し見ただけで検査の必要がないと彼に知らせたということです。

  別の機会に、私はある道場を訪れました。そこには「長住犬」がいたのですが、この犬は非常に霊感があり、誰が修行仲間であるかを見分けられ、たとえ訪問客が正門から百メートルほど離れていても、やはり判断できました。修行仲間ではない人が訪ねて来れば、彼女はすぐに吠えながら飛び出して行くし、もし来た人が修行仲間なら、吠えることなく、走って出迎えに行くのです。

  私が道場に到着した日以降、彼女は私に吠えないばかりか、いつも私を守ってくれました。私の部屋や事務室の外で座っていることはあっても、中までは入らず、私が道場や別の少し離れた場所に行くと、彼女もすぐに自らついて来て、そこに滞在中の別の観音使者に対してもそれぞれ同様に慣れていました。この犬は本当に良い守護犬で、大変体が大きく、毎日とても真剣に道場を守り、多くの人に恐れられていました。時々人に噛みついたからです。何人かの修行仲間が私に言うには、彼らがまだ印心していなかった時、この犬は彼らに対して吠え続け、噛もうとさえしましたが、印心の後は二度と彼らに対して吠えなくなったそうです。印心の後、私たちにはある種の特別な印、あるいは特別な振動力があり、明らかに違うと犬に感じさせているようです。しかし、もしかしたら、あまり真剣に修行していないのに道場に来る修行仲間もいるため、犬は彼らに対して依然として吠え続けたのかもしれません。

  この犬にはテレパシー能力もあるので、もし彼女とコミュニケションをとれば、彼女はすべてを理解できます。ある時、一人の女性修行仲間が、急用があって真夜中に道場へ観音使者を探しに来た時、犬はすぐに門に近い木の茂みから駆け出して来て出迎えました。この女性が犬を呼んで先に中へ入ると、犬は女性に従ってすぐに中へ入りました。また別の時、この女性が道場の車を買い換えることになって、人を連れて車を牽引していると、この犬はとても驚き、慌てて車の近くを走り回りましたが、女性が「これはマスターの言いつけで売りに行くのですよ」というと、犬はすぐに静かに座りました。女性は地元のスペイン語ではなく中国語で話したのですが、それでも理解できたのです。ある時、私は心の中で、この犬は一生懸命責任を果たしているけれど、自分からちょっとやって来て、鼻で私の足を突ついて遊びたいと甘えることができないのは残念だと思いました。

  この犬は自ら道場へやって来たので、私たちはみなふざけて、この犬は「天命」を受け入れて道場の世話をしに来たのだと言っていました。この犬には、体型がそっくりな大きな犬の友達がいて、よく訪ねて来ていました。この友達は来てもやがては帰ってしまうのですが、この犬はちゃんと道場に残っていました。責任を果たさずにこっそり抜け出して遊びに行ってしまうようなことはしなかったのです。最近になって、この犬も年を取り、道場の世話をする人もいるようになったからでしょう、彼女は自ら道場にある小さな川のほとりまで行き、静かにこの世を去りました。私たちはみな彼女を偲びました。

  マスターはこう語っています。「人のオーラが見える犬もたくさんいます。それで、ある人に対しては集中して吠えるのに、他の人には吠えない犬がいるのです。ですから、人によって違ったエネルギーを発しているのです」(アメリカ・フロリダ・クリスマス禅四2001.12.26スプリームマスター チンハイの英語による講義を記録したニュースマガジン131号「霊性と科学」より抜粋)この2頭の犬の物語から、マスターの教えは裏付けられるでしょう。

 

 

命を捨てて我が子を守ったウナギ


中国古代民話より

  昔、中国に周豫という名の知識人がいました。ある日、友人の一人からプレゼントとして周豫の大好物のウナギが送られてきました。その日はちょうど何も用事がなかったので、久しく振るっていなかった腕前を試して、さっそくよく煮込んだウナギ入りスープを作って味わおうと思いました。

  スープが沸騰したので周豫が鍋の蓋を開けた時、奇妙な現象に気がつきました。鍋の中でウナギがひっくり返り、腹全体をお湯から出して、頭と尻尾だけがスープの中に入っていたのです。周豫はこの様子を見てどうしたのだろうと思いました。すぐにウナギを鍋から出し、そのおかしな格好をしたウナギの腹を開くと、驚いたことにぎっしり数え切れないほどの卵でいっぱいでした。なんと、この母ウナギはお腹の卵を守るためにどれほどの力を費やしたのか、煮えたぎる熱湯から腹の部分を避けようともがき、ついに死んでしまったのです! それでもなお弓なりの姿勢を守り、湯の中に落ちなかったのでした。

  周豫はこれを見ると、しばらく茫然として立ちすくみ、こぼれる涙を抑え切れませんでした。彼は、ウナギですら子を守り、命を捨てられるというのに、万物の霊長たる自分はといえば、母親に対して孝行の一つもしていないと思いました。周豫は感慨のあまり、その場で生涯もう二度とウナギを食べないという誓いを立て、さらに、それ以来、自分の母親にとても孝行するようになりました。


笑い話


うれしくない栄誉


スプリームマスターチンハイ フロリダ・アメリカ 2001.12.28.(英語)ビデオテープNo.735


  ある医師が病室に入って来て、ジョンソンさんに言いました。「あなたに良い知らせと悪い知らせがあります」。ジョンソンさんは言いました。「どうぞ、良い知らせから教えてください」「ここの医師たちは、不治の病にあなたの名前にちなんで命名しようとしています」




道の途中で

― ビデオ講演会での体験談 ―
  印心後1年4ヵ月経った今


日本・東京 斉藤 元晴

  私は2001年11月3日に印心を受けました。職業は自動車会社に勤務しながら、土日、夜間に自宅で整体院をやっています。整体の学校の先生に紹介していただき、マスターのことを知りました。

  以前、私はベジタリアンとは程遠く、アンチベジタリアンで、お酒、タバコ、肉、魚、なんでもありという状態でした。お酒は日本酒を飲めない人は、日本人ではないと思っていました。ビールも大好きで、毎日のように飲んでいました。タバコは一日一箱吸っていました。肉はほとんど毎日食べ、たまに焼鳥屋などに飲みに行くと、一人で30本位は食べていました。魚はお刺身、すしを食べない人は日本人ではないと思っていました。基本的に我慢のできない人だったのです。

  その頃の私は、体重は100キロ近くあり、高血圧で、お医者さんからの薬を6年間飲み続けていました。年々、薬の量が増え、頭のシビレ、手の震えなどが出るようになっていました。不安になった私は、以前より興味のあった整体の学校に行き、先生のご指導を受け、インドのヨガナンダ、スリユクテスワを知り、そしてチンハイマスターを知りました。

  その間に、気がついた時にはタバコは一ヶ月以上吸っていなかったので、そのままやめてしまいました。お酒は菜食が進むにつれて飲まなくなりました。飲むと2日酔いではなく、その日のうちに頭痛がしました。肉、魚も菜食が進むにつれ、また、チンハイマスターの教理の理解が深まるにつれ、食べられなくなりました。そのかわり、それ以上においしい菜食の発見がありました。以上のように、我慢して菜食をするというよりも、自然に菜食になって行きました。

  また、ある日単純計算をして、一日300gの肉を毎日食べたら、一年で109.5kgとなり、自分の体重以上を食べていることになり、その分は動物たちを殺生することで補っているのだと知った時、肉はまったく食べられなくなりました。
今では、高血圧の薬はやめて3年経ち、血圧は安定し、頭のシビレ、手の震えはありません。

  印心当時は我慢のできない私が、菜食、修行をいつまで続けられるか不安がありましたが、今は自分の霊性の向上がとても楽しみで、「自分の本来の役割、ここにいる目的」それを知りたいという想いが強くなって、その想いに引かれるように修行しています。

  また印心を受ける前、受けた後も多くの同修にお世話になっています。その方々に共通して言えることは、「感動、やすらぎ、安心感」を与えてくれるということです。話をしても、しなくても、何かこみ上げて来るものがあります。それが、霊的パワーというものでしょうか。それを得るため、月に2、3回茅ヶ崎から高速道路を使い、2時間かけて共修に通っています。

  これから私も、たとえ自分が明日死を迎えることがわかっていても、人に勇気や感動を与えることができる、そんな生き方ができたらと思っています。この機会を与えてくださり、すべての手配をしてくださっているマスターに感謝をいたします。


話の宝箱

初期の弟子による思い出話
弟子との聖なる愛


文:野草

  1985年10月2日、マスターは台北市龍山寺住職慧印法師の招きに応じて、龍山寺で信者向けに講話を行いました。そして、私の一生はこの時から大きく変化したのです。その晩まで私はお坊さんの講話があることすら知らずにいたのですが、茶褐色の僧服を着た小柄でかわいらしい尼僧が観音菩薩像に礼拝しているのを見て、私の視線はその優雅な姿に一瞬で釘づけになりました。それは私の魂を揺り動かし、しばらくの間、全く視線を移すことができませんでした。その方の礼拝している姿はとても気高く真摯で、まるで目の前に仏がいるようでした。一方、他の方が礼拝している時は、仏は遠く天にいらっしゃるようでした。慧印法師の紹介によって、ようやく私はこれが清海マスターの最初の招待講演であることを知りました。

  その時マスターは、英語と中国語で講話を行ったのですが、ただ覚えているのは、講演が終始とても楽しく過ぎたことです。しかし、私は頭の中で「この法師は弟子を必要としておられるのだろうか」と考えていました。というのは、前の日に観音菩薩に向かって激しく「私を導いてくれる在世の先生が欲しいのです」と言ったばかりで、翌日目の前にこの方が現れるとは思いもよらなかったからです。

  内湖にあるマスターの住所がわかると、直ちに行き方を尋ねて車に乗り込みました。車を乗り換え、道を尋ねながら何度も迷った末に、やっとのことでマスターの住む所にたどり着きました。そこは開発されたばかりの広い地区で、家はたくさんあったのですが、まだ番地表示はありませんでした。歩き回って道に迷い、途方にくれると、そのたびにいつも「折りよく」誰かが現れ、私に道案内をしてくれました。後日、ようやく私はマスターの化身が私を助けに来てくれていたことがわかりました。後で聞いた話ですが、私が着いた時、マスターは弟子に向かって「彼女が来るのはわかっていました」と話していたそうです。

  その時はちょうど三日間のリトリート中だったので、本来ならば印心を受けていない者は入ることができなかったのですが、マスターは私がせっかく遠い所から来たのに、もしまた帰ってから出直すとリトリート後の朝一番の印心に間に合わなくなるのを気の毒がり、印心の前夜にそこに宿泊することを優しく承諾してくれました。泊まった翌日の印心の時、境堺(きょうがい)を見ながら、私は「わぁ、本当だ! マスターが言われたことは本当だ!」と思っていました。

  マスターの住まいは山際に近くて、よく雨が降りました。グループメディテーションに行くために家を出る時は太陽が高く照っていてもマスターの住まいに着く頃には土砂降りになっていて、傘を差しても役に立たず、必ず着替えを持参しなければなりませんでした。台風が来る日は特にマスターの顔を見に行かないと安心できませんでした。一度、マスターがずぶ濡れになった私たちを見て心を痛め、「外は台風だというのに、あなたたちは気が変になったのですか!」と言ったこともあります。

  思いやりのあるマスターは、いつでもどんなものでも、みなと分かち合うことを忘れません。ある日、家に帰る最終バスに遅れまいと、慌しく別れを告げようとした時、マスターはバルコニーから私たちに呼びかけ、愛がいっぱいの加持物を投げ落としてくれました。みなは暗闇の中で加持物を受け取り、温かい気持ちに満たされました。道のはずれまで行って振り返ると、まだマスターが私たちに手を振っている姿が見えました。

  マスターの住まいは辺鄙な所だったので、毎日グループメディテーションに行ける人は決して多くありませんでしたが、私にとっては、たとえ往復4時間近くかかり、マスターと30分しかメディテーションができなくても、毎日の暮らしの中で最も貴重な時間でした。メディテーションが終わり、マスターと一緒に座って話を聞くこともこの上ない楽しみでした。

  光陰矢の如し。楽しい日々はあっという間に過ぎ、マスターは、ビザの期限が来たために出国せざるを得ませんでした。それからマスターのいない半年間、修行仲間はただ一生懸命メディテーションをして互いに励まし合い、同時にマスターからの音信を待ち望んでいました。当時、私たちみんながマスター恋しさのあまり、羽をつけてそばに飛んで行きたいくらいでした。ある日、一人で掃除をしにマスターの住まいに行った時、ドアを開けた途端に祭壇の上に置いてあるマスターの袈裟が目に入りました。まるでマスターがいるように見え、懐かしい気持ちがどっとこみ上げて涙となって流れ落ちました。私は泣きくずれ、ただこう思うだけでした。「マスター、あなたはいったいいつお帰りになるのですか?」はからずも、マスターはインドから戻った時にこう訊ねました。「私が帰りたくないのがいけないみたいですね。誰があんなに激しく泣いたのですか?」

  マスターが国外にいる間、私たちはその思いをどう処理すればよいのかわかりませんでした。そこで、電話帳を頼りに、マスターが以前リトリートしたことのある寺を次々と訪ね回りました。私たちはいろいろと訪ね歩いた末に、ようやく静かですばらしい場所を見つけました。そこの年老いた在家の信徒は、マスターの法名を聞くとすぐに昔話を屈託なく始めました。マスターはそこにいた頃、人には謙虚に接し、熱心に修行に取り組んでいたそうです。お年寄りは、私たちを少し離れた奥の住まいに案内しました。目に映ったのはレンガ造りの小さな建物でした。数えるほどの粗末なレンガで、洗面台も簡単にレンガを積んだだけのものでした。これが在世の明師が世間から隔絶して修行をした禅寺なのです。慈悲深いマスター、あなたは、衆生の幸せのためにこんなに苦労をされたのですね。

 

 

海外弘法での話    
大きくてちょうどよかった紙箱


文:観音使者

  1993年、マスターが初めてオーストリアで講演を行った時、彼女は冗談やユーモアで会場の聴衆を心ゆくまで楽しませてくれました。しかし、その手法は、まさに凡人には思いもよらないものでした。この時、マスターは会場に到着するとステージに上がって座り、私たち数人のスタッフはステージ脇に控えて立っていました。司会者が話していた時、マスターは私を見てテーブルの上にあるフランネルの箱を指して首を振りました。その仕草から、箱が気に入らないので直ちに取り替えるようにとの合図であることは明らかでした。突然の事態に、しばらくの間、私はちょうどよい代わりの物をどこに探しに行けばよいのかわからず、ただあせるばかりで困り果てました。ようやくとても小さな紙箱を探し出し、布で包んでからスタッフに手渡して、ステージに上がって今置いてあるフランネルの箱と交換するように頼みました。ところが、彼女はびくびくして聞きました。「大勢の人の前で、ほんとにそんなことをしなければならないのですか?」やっと彼女は勇気を出してステージに上がって行きました。

  フランネルの箱を下げて紙箱を置いてみると、マスターの体は前を遮られて全く見えなくなってしまいました。ただ顔が見えるだけで、箱越しにやっとの思いで聴衆を見ながら話していました。この突然のできごとに会場の人々はみなおなかを抱えて笑い出し、マスターも苦笑いをして困ったそぶりをしました。それまで、会場の空気はとても硬く、聴衆の様子はたいへん厳粛でしたが、一瞬でその雰囲気は打ち溶けた気楽な感じになりました。しかし、ステージの下の私は、笑うことができませんでした。マスターを笑い者にしてしまい、とても申し訳なく思っていたからです。「なんて自分はこうも愚かなのだろう。紙箱が大きすぎることくらい考えればすぐにわかるはずなのに、ステージに持って行くとは! だめだ。もう一度行って降ろさなくては。マスターがよく見えないばかりか、撮影係にも迷惑になるのだから、私の失敗を見過ごしてはくれないだろう」と思いました。そこで、私はもう一度スタッフに箱を引くようにお願いしました。彼女も同感で、そっとステージに近づいて紙箱を取ろうとしたところ、マスターは手を伸ばして箱を押さえ、持って行こうとさせませんでした。その時、私はとても驚きました。その後マスターのこの一風変わった新しい方法で講演は続けられ、聴衆は終始楽しく過ごしたのでした。

  実は、マスターはみなの心を開き、リラックスしてのびのびとした気分にさせるために、惜しみなく自ら喜劇を演じたのでした。講演会場には高いレベルのすばらしい磁場が作り出されていました。マスターは高雅で霊的な教えを伝えるとともに、天真爛漫な気持ちや楽しい雰囲気を私たちに与えたのです。こうしてマスターは本当に心を込めて、世の中の人々を気楽で楽しくさせてくれるのです。


最高の芸術

万歳竹燈が最高の芸術の新しい頂点を作り出す



デザイナー:スプリームマスター チンハイ

マスターは最近、とても優雅な新しい万歳燈を12種類デザインしました。すべてが無傷の竹で製作されています。もともと竹片はそれぞれ大きさ、形、手触りが異なっているので、素材の特色が最大限に引き出されるように、燈篭はひとつひとつ手作りされています。製作工程で竹の持つ本来の外観を壊さないようにと、マスターは特別の指示を出しました。ですから、それぞれの燈篭は素晴らしい芸術的な傑作となっています。12種類の燈篭すべてに省エネタイプの電球や発光ダイオードが巧妙に取り付けられていますので、それぞれの燈篭は独特にすばらしい光を放っています。そしてもちろんマスターはそれぞれの燈篭に燈篭の輝きと同じように特別の意味と無限の愛を込めています。

天国の橋

とても明るく輝いている天国の橋は彼岸にある家へ衆生を帰してくれます。

天国の雨

「天国の雨」の小さな竹片は、渇いた魂を癒すため天国から落ちてくる光のシャワーのように優雅に空を舞います。

甘露瓶

甘露瓶の無量の光と愛はきっと魂の探求者の渇きを癒してくれます。

神の手

衆生をいつでもどこでも守ってくれるは、誰の手でしょうか? 五本の指から五つの愛の光が放たれ、私たちを第五界へと導いてくれます。

八卦極

八卦(Ba Gua)(中国古代の本である「易経」に由来する八角形の図)は日常生活のすべての状況を象徴しています。八卦極の燈篭の輝きはこの世の幸福を保証します。 

福光

放射状にかたどられた竹片は地上の隅々まで照らす福光を表しています。福光をたよりに、源へ帰るための道を見つけます。

 

心蓮

中央で智慧の真珠が永遠に輝いている清らかな蓮は、智慧眼をよく象徴しています。

太極

陽の中に陰が、陰の中に陽が存在します。肯定と否定の性質はこの二元性の世界で絶え間なく交互に入れ替わっています。しかし内在の光はそれらすべてを超越します。

生命の樹

内在の光によって養われた、「生命」という樹は成長し、素晴らしい花をつけます。

啓航

この魂のUFOに乗り込んで、光輝く星空への旅へ出かけましょう。

天門

天国への唯一の門は、封印されたように見える城に隠されています。その門の鍵は悟りを開いたマスターだけが持っています。

平和の光

優しい平和の光が四方八方に放射され、衆生の心に安らぎと静けさをもたらしてくれます。





魂の高揚

スプリームマスター チンハイ 最新DVD


<英語+24言語字幕>

680 「空」より高い境涯
タイ・バンコク国際禅六  1999.12.27.

禅でいう「空」の境涯についてご存知ですか。これよりも高い境涯はあるのでしょうか? このDVDの質疑応答で、マスターは「空」の境涯だけでなく、そこより高い境涯について説明しています。最高の境涯(第五界)に到達するために空の境涯は通り過ぎなければなりません。このことについて、マスターは次のよう述べています。「印心により目覚めると、生まれ変わり、生きはじめます。そして成長すると、聖人でもある本来の人間となります」「天界と人間界で同時に存在し、両方の世界での一員となります」。このように、私たちは人間界と天界の両方の境涯において高貴な生活を楽しむことができますし、不完全で、つりあいの取れていない両極をなすふたつの世界(天界と人間界)を超越できるということをマスターは教えています。すべての魂は、天国のような気ままな気分でいながら人情味のある感情を持ち、この世で生活しながら世俗に縛られないといった完璧で豊かな真実の境涯へ到達できるのです。

 

  



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