私たちが天の父と再び結びついた後、そこにはすばらしい 安らぎ、
喜び、 卓越した平和、たくさんの加護があります。            

〜スプリームマスター チンハイ

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uマスターの言葉
再び神とつながり、天上に天国の恵みをもたらす

u道の途中で
  マスターはその無限なる偉大さにより放蕩息子を呼び戻す

uベジタリアン時代
  横田空軍基地に菜食料理が登場

uマスターの講義
  悟った者のとらわれない心

u智慧の真珠
  知能を正しく使い、徹底的に分析して慎重に行動する/魂の仲間

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ニュースマガジン  145号
2003年10月 5日 出版
1990年4月1日 創刊
発行所: The Supreme Master Ching Hai インターナショナルアソシエーション出版 会社
発行者: 謝 幸玲


スプリームマスター チンハイニュースマガジンは、中国語、英語、オウラック語(ベトナム語)、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、ポルトガル語、韓国語、タイ語、スペイン語、日本語に翻訳されています。また、インターネットでダウンロードできます。「観音wwwサイト」のページをご覧ください。

 


マスターの言葉


神は私たちとこの地球に、大きな進歩を遂げるための方法と機会を与えました。
ですから、私たちは神の恩恵のもとで自分自身を最新のものにしていかなければなりません。
そうすれば、進歩しつつあるこの地球上で、時代に調和しながら生活していけるでしょう。


再び神とつながり、地上に天国の恵みをもたらす

スプリームマスター チンハイ ポーランド・ワルシャワ 1999.5.11. (英語) ビデオテープ No. 657


  私は毎日、神の恩恵がよりいっそう注がれ続けているのを感じ、そして人々がますますこの神の恵みを認識してきていることを感じます。私はただ、とても興奮し、幸せなのですが、その事をみなさんにどのように説明したらよいかわかりません。時々私は我慢できなくなります。というのも、自分が神の指示に対してあまりにものろのろと働いているからです。神はもっと早く動くことを望んでいます。しかし肉体には限界があり、人の頭脳には、神の恩恵のような目新しく見えることについて、たとえそれが実際には全く新しいものでなくても、理解するのに限界があります。

  もし神が「私たちは神の子です」と言い、仏陀が「私たちはみな同じ仏性を持っています」と言うのなら、なぜ私たちは彼らのようになることができないのでしょうか? 私たちは栄光に満ち、賢明で、幸福で、知的で肯定的な力に満たされた人生を送れるはずです。本当にそうならなければなりません。なぜなら、私たちは神の子であり、そうすることが出来るからです。(拍手)もちろん、私はその方法をお教えします。そして、それには何の費用もかかりませんし、今この瞬間も、これから先もずっと、全く何も支払う必要はありません。なぜならば、神の王国はみなさんのものだからです。それは、私がみなさんに差し上げるものではありませんし、みなさんがすでに持っているものに対して、支払いを要求することはできないからです。それに、みなさんが望んでいるもので、神が与えないものはありません。神はあなたが寝坊したときに起こしてくれるように、生活の細部にわたってまで世話をしてくれます。本当ですよ! この大変なスケジュールの間中、神はそのような細かい所まで私の面倒を見てくれるので、時々泣いてしまいます。私はいつも、ほとんど初めての見知らぬ国へ行くので、どこへどのように行ったらよいのかわからなくなりますが、そんな時、神はいつも私に素晴らしいホテル、そして中国料理店やベトナム料理店、雑貨店など、すべて手配してくれるので、必要なものは何でも揃います。そうでなければ、きっと私は飢えてしまっていたでしょう。

  いったん私たちが神と再びつながると、毎日生活の中で、数々の奇跡が起こります。私たちがするべき事といえば、ただそこに座って神の声を聞こうと努めるだけなのです。しなければならないのはそれだけです。私たちがそれをメディテーションとか、小部屋の中での沈黙の祈りとか、神を沈思黙考するなどと言うのは、そういう理由です。何であれ、みなさんの好きなように呼んでくださって結構です。それは、私たちが人生において何をすべきか知るために、ただ静寂の中で神と交流するという事なのです。その後、私たちは何についても決して思い悩まなくなります。というのも、あらゆる方面で、神が私たちの面倒を見てくれるということがわかるからです。以前は、たとえ物事がすべてうまくいっている時でさえも、結局は状況が悪くなるかもしれないと、なおも心配していました。

  しかし、今は何かがうまくいかなくても、私たちはじっくり構えて様子を見ます。なぜならば、そのうち神が、私たちが本来あるべきどこか別の所へ運んでくれるでしょうし、それこそが最初の場所で、物事がうまくいかなかった理由だと知っているからです。それで、私たちは起きている時も、寝ている時も、人生のあらゆる瞬間において、平和で、安全に、神の広大な愛に包まれて生活できるのです。というのも、私たちが自分たちの背後にある、粗雑で、粗悪で、荒々しいエネルギーの境界(きょうがい)から離れ、同時に存在するより高度な境界に上昇して、その高い境界から最高のものを受け取ることを選択したからです。

  以前、神とつながっていない時は、私たちには実存するこの物質的なエネルギーしかありませんでした。私たちが毎日一生懸命頑張っても、しばしばその努力が無駄に終わり、自分は不幸だと感じていたのはこういう訳なのです。なぜならば、この地球上の物質的なエネルギーは重たく、いつも私たちに圧力を与えているからです。けれども、再び神とつながった後は、どんどん高い境界へ上昇し、より清浄になっていくことができるのです。神の智慧を知ると、再び低い世界に下りてきても、以前よりも物事をうまく処理することができるようになります。ですから聖書には「天国はあなたの内にある」と書いているのです。それは、私たちがしばらくの間静かに落ち着き、自分自身をこの物質世界から切り離すことによって、内面に存在する何か別なものを見つけることができるという意味なのです。

  私たちの中というのは、この肉体の中にあるという意味ではありません。それはただ単に、この物質世界の中に別の世界があることを意味します。その世界は、より素晴らしく、より幸福です。私たちはいつでもそこへ上がって行って、またここへ降りてくることができます。この現実世界に生活していながら、それと同時に天国を楽しむこともできるのです。もしくは、少なくとも一日の中で時々はそのようになりますし、後でもっと慣れてくれば、より持続できるようになります。これが、私たちが聖者になる方法です。なぜなら、私たちはすべてを手にしているので、何も欲しがらなくなるからです。そうして私たちは「神は、私の良き指導者です。もう何も望みません」という言葉を理解します。なぜなら私たちが父なる神と再びつながりを持った後は、大きな満足と、平和と、至福に満たされるからです。その時私たちはお金を持っているかもしれませんが、それに執着しなくなります。神は私たちの生活を快適にしてくれるあらゆるものを与えてくれますが、もし必要であれば、私たちはいつでもそれを投げ出すことができます。しかし神はそうすることを望んではいません。神は、私たちが天国の生活を楽しむのと同じように、同時に物質的な生活を楽しむことを望んでいるのです。私たちは、両の手に両方の世界を持っているのです。

  私が神を求め始め、それから神の事がわかりかけてきた頃、私はすべてを放棄してしまいました。なぜなら、父なる神以外に必要なものなど何もないと感じていたからです。神と再びつながりを持てたことがあまりにも幸せだったので、他に何も欲しくなかったのです! けれどもその時、神は私に、非常にたくさんの物を与えたいと思っていました。かつて私が望んだものや、望まなかったものまですべてを、です。ですから私は「どうしてですか? 私にはそんなものは必要ありません」と言いました。

  そして「神様、私は、食べ物や飲み物がなくても、その他の生活を快適にするものがなくても、やっていけます。毎日あなたに会うことができるなら、他に一体何が欲しいというのでしょうか?」とも言いました。その当時、私は、どこへ行くにも一日一回しか食事を取りませんでしたし、3着の服と寝袋しか持っていませんでした。しかし、神は私に言いました。「いいえ、あなたは変わらなければなりません。私があなたにあらゆるものを与えていることを、世界に示すべきです。あなたは地上でそうであるのと同じように、天国でも栄光を手にしているという見本になる必要があります。そうすれば、あなたを見る人々は、私のことを寛大な神であると理解し、すべての子供たちの面倒を見ている神だから、自分たちはあらゆるものを手に入れることができるとわかるでしょう」

  私は、少し気が進みませんでしたが、もちろん「わかりました、神様。何であれ、あなたがおっしゃることは、その通りにします」と言いました。それ以来ずっと、神は私に非常にたくさんのものを与えて、加持してくれています。私は神が与えてくれているすべてのものを、使ってしまうことすら出来ません。自分が持っているものは何であれ、他の人々と分かちあうことが出来て、私はとても幸せです。そして今、私は神は正しいと思っています。私はお金を持つべきなのです。現在では、すべてのものが進歩して、科学的になっています。私がみなさんに会いに行きたくなったとしましょう。私は切符を買う必要がありますが、みなさんにお金を出してくれるように頼みたくありません。自分自身で買うべきですし、そうすることはとても良いことです。

  神は私たちとこの地球に、大きな進歩を遂げるための方法と機会を与えました。ですから、私たちは神の恩恵のもとで自分自身を最新のものにしていかなければなりません。そうすれば、進歩しつつあるこの地球上で、時代に調和しながら生活していけるでしょう。神が与えてくれた新しい発明や便利なものをすべてうまく使いこなすために、私たちにはたくさんの物質的な物も必要です。そして私たちは、神のメッセージを兄弟姉妹に伝えるために、新しい科学的な発見を利用することができるのです。



道の途中で


マスターはその無限なる偉大さにより放蕩息子を呼び戻す

マジェネスタ・クスティン オーストラリア・ノーザンリバース・バイロン・ベイ(英語)

  マスターの恩恵によって印心を受けてから3年半後、私は実に前向きな実感を体験しました。それまでの私のメディテーションは、困難とストレスに満ちていました。はためから見た私の暮らしぶりがどれほど光り輝き、楽しそうでも、内面はいつもからっぽでした。その時期は、特にマスターを訪ねようとも思いませんでした。それが今や、私のその感覚は変化しました。そして、もし神のご意思でその機会が来た時には、そうなるものと確信しています。

  修行仲間となった最初の数年、私は自分の生活態度を改めなければならないと気づきました。しかし、私は怠惰で非生産的で傲慢でした。私の自我が、自分を批判的で表面的で不誠実な人間にしていたのです。そんな状況が強く影響して、私は何度も繰り返した空虚な人生の末に得た印心という神からの贈り物を無駄にしたまま、恐怖と混乱と怒りを感じるようになりました。マスターの雑誌を読む気にもならず、ビデオも観ようとしませんでした。しかしながら、私はこの自分の生活態度は、低レベルの自己への執着を映し出しているに過ぎないこと、そして、音流のメディテーションを通じて真の自分を取り戻すために、その低レベルの自分を手放さなければならないということを徐々に理解し始めました。

  この事に気づいてからは、私は自分に与えられた「神からの遺産」を請求しようと決意しました。すると事態が変化し始めたのです。そして私は、マスターからもっとも価値ある贈り物をいただいたことを急に感じとったのでした。それは、私を新しいエネルギーと開放感、喜びで一杯にしました。

  まるで放蕩息子のように一度道を見失い、そして今また見つけたのです。マスターは、彼女の愛と恩恵と許しと慈悲で私を元に戻し、そして包み込んでくださったのです。今や私の人生は変わりました。私は、今は完全に精神修行に身を委ねているように感じています。そして、より多くを得るには、より多くを与えねばならないことがわかりました。もし、私がマスターに一歩近づくと、マスターは私に3歩近づいてくれるでしょう。とてもシンプルなことなのです!

  マスターから受けた無限なる恩恵のおかげで、体験するすべての出来事に、より深い意義を感じられるようになりました。日常的な事柄に、素晴らしい目的意識と希望を見出し、日々の暮らしがよりリラックスしたものとなりました。新しいエネルギーを得て、また新たなる決意と信仰心を持つ今、私は可能な限りマスターと共にあろうと心に誓っています。海岸を散歩している時も、料理をしている時も、運転をしている時でさえ、私は一日中五句を心で唱えています。神を知るための新たなる決意に満たされています。

  マスターの愛と慈悲は到る所に存在し、私は見えなかった眼が治ったかのように、あらゆる場所でそれを感じることができます。しかし、それは見ることを拒否すれば見えないのです。私の暮らしの中でも、時々否定的な力が強くなることがあります。ほんのわずかなひび割れを押し広げ、亀裂を作り、その亀裂をさらに深く大きいものへとしていきます。けれども、今はすべて良くなり、私は以前より強くなりました。私の信仰心は固く、輝ける未来を希望に満ちて待っています。私は神の恩恵を浴びるために、謙虚な心で無条件にすべてを委ね、マスターの足元にひれ伏します。これこそ私に対する神のご意思にほかならないでしょう。自分一人でできる事など何一つなく、すべてはマスターの名のもとにのみ可能となります。私には今、その真実がわかります。以下の言葉は、私の新たな生活を表現したものです。

あなたが私を呼んだ時、私はまいります。
あなたが去れと命じれば、私は去りましょう。
あなたのいる所どこにでも、私は従います。
あなたが私から立ち去った時、私の存在はなくなります。
御心に従がわん!





ベジタリアン時代


横田空軍基地に菜食料理が登場

日本・東京 ニュースグループ


2003年6月、東京センターの修行仲間たちは多くの人に菜食料理を紹介するために、約14,000人のアメリカ軍人が住んでいる在日米空軍横田基地で、2回に渡り菜食パーティーを開催しました。
最初のパーティーは6月7日、二人の仲間の家の広い庭で催されました。パーティーの日の前後は、来る日来る日も雨ばかり降っていましたが、当日はすっかり晴れわたり素晴らしい天気になりました。パーティーに参加したゲストたちも「今、東京は梅雨なのに、こんなに良い天気に恵まれるなんて、とても信じられません」と驚いていました。
たくさんのアメリカ人がパーティーに参加して、菜食料理のおいしさに気づき感嘆していました。多くの人が作り方を知りたがり、近いうちに料理教室を開いたらいいのにと提案してきました。それを聞いて私たちは、菜食料理のおいしさをアピールするだけではなく、菜食料理がどんなに簡単に作れるかを伝えることも大切だということに気づきました。こうして、ゲストたちの期待に応えるために、6月21日に第2回菜食パーティーを計画することになったのです。
2回目のイベントの準備をしていた時、予期せぬことに、フォルモサのビデオ制作者から連絡を受けました。彼らは「芸術と霊性」というテレビ番組を制作していて、かねてから日本の菜食料理の特集を組みたいと考えていたので、私たちの企画を聞いてさっそく来日することになりました。
そしてまた、日本を訪れていたオーストラリアの仲間から、滞在場所を探しているという電話がありました。彼は到着すると、さっそく私たちが抱えていたコンピュータのトラブルを解決するのを手伝ってくれました。おかげで、パーティーのための招待状や案内の印刷が間に合ったのです。さらに、ビデオチームのメンバーが「ビデオカメラを操作できる人が必要だ」と言うと、偶然にもそのオーストラリアの同修は、以前アメリカでビデオ制作の勉強をしていたということで、パーティーや料理の実演の撮影を自ら買って出てくれました。
パーティー前日、料理の撮影の日、料理や設営スタッフの仲間たちが横田基地に集まりました。まるで魔法のように、一晩でアメリカンスタイルの居間が日本の調理場へと変身し、繊細な日本の菜食料理が次から次へと準備されていきました。その間、フォルモサのビデオスタッフは東京の仲間たちと一緒に、夕方から夜通し撮影を続け、明け方までに、12種類もの菜食料理の実演の撮影をやり遂げることができたのです。
そして驚くことに、パーティー当日の6月21日、天気はまたしても快晴。群馬や東京の各センターからも仲間たちが駆けつけました。イベントのハイライトは料理の実演です。フォルモサのビデオチームは、視聴者のために番組内容をより充実させようと、すべての過程を撮影しました。中国人の女性同修は調理技術を披露しただけでなく、ゲストにも調理に参加してもらう試みをしました。パーティーは大成功を収め、ゲストはみな菜食料理を堪能し、口々においしいと絶賛してくれました。何人かのゲストは、次のパーティーはいつかと質問してくるほどでした。
後になって、このパーティーのことを詳細に思い返してみると、私たちはすべてが神の手配であったことに気づきました。最初のパーティーはまるで2回目のパーティーのリハーサルであったかのように、料理の実演の見せ方など私たちはすでに理解していたのです。このイベントを通して、私たちは「すべては神によって手配されている」ことを目の当たりに体験し、そして、神の仕事に参加する最高の方法を学んだのです。

このイベントの実況報告はインターネットで見ることもできます。Sunテレビの連載番組「霊性と芸術・45」にアクセスしてみてください。URLは以下の通りです。

http://www.Godsdirectcontact.org.tw/eng/hichannel/index.htm
(英語・中国語字幕)





マスターの講義


悟った者のとらわれない心

スプリームマスター チンハイ フォルモサ・西湖禅四 1988.9.24-27(MP3-3)


  みなさんは、なぜ私が神通力を使ってはいけないと教えるのか知っていますか? たとえ神通力があっても使ってはいけません。どうしてでしょうか? (ある人が答える:因果に違反するからです)それは、それほど気にかける必要はありません。他に何かありますか?(ある人が答える:我執です)そうです! これはとても重要です! 修行者には我執があってはいけません。我執があると、三途苦(地獄、餓鬼、畜生の苦しみ)から脱することができません。なぜなら、まだ「一個人」が存在していて、宇宙と隔たっているからです。私たちはこの「個人」の概念があるからこそ、生死を輪廻するのです。「個人」の肉体があれば「個人」の問題があり、「個人」の因果、「個人」の応報があるのです。

  もし、私たちにこの隔たりの概念がなければ、私たちは宇宙と、万物と一体になります。これこそが最高のレベルです。みなさんはこのレベルをまだ理解していないかもしれませんから、私が簡単に説明しましょう。最高レベルの修行者はいかなる状況も気にせず、何にもとらわれることがありません。病気になったら病気、雨に濡れたら濡れる、風が吹けば吹かれ、風が吹いても恐れず、雨が降ってもお構いなしです。なぜなら、これらはみなただの自然現象にすぎないからです。
仮に、私たちが、風が吹くのが嫌いだとしても、風を必要とする場所もあるのです。私たちは雨が嫌いでも、農夫には雨が必要です。降ってこそ作物を植えられるのです。もし私たちが、自分にとって良いからと、雨が降らないよう祈ったとしても、農夫にとっては、ちょうどその時に雨が必要な場所があるとしたら、どうすればよいのでしょうか。ですから、神もすべての衆生の要求に完全に合わせることはできないのです。ある人は雨が降ることを望み、ある人は太陽が出ることを望み、ある人は風が吹くことを好み、ある人は雪が降るのを好むからです。ある人は雪が降ると、すばらしい眺めになって美しいと思いますが、大嫌いな人もいます。とても寒いし、野菜を植えられず、生活することもできず、あるいは体に良くないからです。たとえ神であっても、すべての衆生の願いに合わせることはできないのですから、私たちがそんなに多くのことにかまってどうするのでしょうか。

  昔、中国に一人の王様がいました。ある日、彼はとても美しい厚手のセーターを着て宮殿の中に座っていました。そしてバルコニー越しに外を眺めて言いました。「おお、雪が降ってきれいだ、すばらしい!」彼は雪が大好きだったので、もっともっと雪が降りますようにと神に祈り続けました。そして、そこで座って観賞していました。すると官吏たちがやって来て、大勢の国民が餓死したり、凍死したりしたと報告しました。しかし、王様には全く理解できません。宮殿で暮らしていたし、雪はとても美しいと思っていたからです。おそらく宮殿内には暖房の設備があったでしょうし、王様はすばらしい厚手のセーターを着ていましたから、もちろんわかるはずなどありませんね。

 

                    喜怒哀楽は悟り


  この世界の喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、苦しみは、みな私たちに学ばせるための授業なのです。もし、これらを経験しなければ、私たちには生きとし生けるものの感覚がわからないでしょう。ごらんなさい。昨日たった一晩雨が降っただけでも、みなさんはテントの中でとても不快に感じて、パニックになったり、自分を哀れみ始めたりしました。そして、たくさん愚痴をこぼしました。たとえここに来て私に会うことができても、やはり不平を言います。雨の日は快適でないし不便なので、私に会えたとしても、雨の問題を忘れることができるほど楽しくはないからです。(笑い) ましてや生活のすべてが非常に苦しい人たちは、元々それを補う楽しみも全くなく、どんな状況も彼らを笑わせることはできません。

  私たちは苦しい時、慈悲心を養うチャンスを与えてくださったことを神仏に感謝すべきです。もし自分が苦しい時に慈悲心が全く湧いて来ないのならば、自らを哀れみ、どうしてそんなに硬く、石と同じようになってしまったのか反省すべきです。私たちは、楽しい時にも慈悲心が湧き、幸せでない人々を思うべきです。苦しい時には、さらに慈悲心が湧き起こり、誰か毎日自分と同じように、あるいは自分よりもさらに苦しんでいる人がいることを思うべきです。こうであってこそ「生活の中で常に神とともにある」ということになるのです。私たちの慈悲心とは「神」であり、私たちの愛の心は「悟った者」なのです。もし私たちが愛の心と慈悲心を失ってしまったなら、私たちは悟った者からはるか遠く離れてしまいます。悟った者とはつまりこの様なもので、何か決まった様子ではないのです。

  私たちはメディテーションの時、内面の光を見て、内面の音を聞くべきです。なぜなら、その光と音は最高レベルの慈悲心と愛のパワーを中に含んでいるからで、それらと交流すればするほど慈悲深くなります。光がとてもきれいだから見るというわけでも、音がとても美しいから聞かなければならないというわけでもありません。違います。違うのです! それが含んでいる慈悲、博愛が一種の薬だからであり、私たちの自己中心、傲慢、悪い心を治すことができるからなのです。もし、この種の高等な薬がなければ、私たちの貪欲さ、怒り、愚かさの病は治しようがないのです。

  しかし時には、私たちが十分にメディテーションをしていなかったり、修行不足だったりするために、神が病気や災難、あるいは苦しい状況を与えて、私たちに速く学ばせざるを得ない場合もあります。というのは、私たちが高等な薬で治療していないので、この時は、やむなく低レベルの薬を使用するしかないのです。例えば、漢方薬が嫌いな病人がいれば西洋薬を与えなければなりません。もしその人が西洋薬も嫌いならば、病気が重くなったら手術して悪い所を取り除くしかありません。ですから、病気がまだひどくない場合は漢方薬を飲んでゆっくり治すこともできますが、重病ならば、時には急いで西洋薬を飲ませたり、注射をしたりすべきです。こうした場合、効果はやや速く出ますが、少し痛みがあります。もし病状がとても悪ければ、手術しなければなりません。あるいは、死んで完全にその肉体をなくして、別の体と取り替えるのです。

  そういうわけで、私たちは苦しみを恐れるのではなく、苦しみに耐える辛抱強さがないことを心配すべきです。私たちは神仏に、自分をより辛抱強くさせてくれるよう祈るべきです。辛抱強さとは何でしょうか? 辛抱強さとは最高のレベルです。ただ耐えて不平を抱かないばかりではなく、感謝の心もなければなりません。さらに少し高いレベルでは、いかなる状況も気にせず、状況にまかせます。自分とは関係ないのです。そうなれば世の中の事に全くとらわれず、喜怒哀楽を感じず、また怖がることもありません。世間の人と一緒に喜怒哀楽を表すこともできますが、ちょうど傍観者のように、自分の傍に立って他人の喜怒哀楽を見ているようで、自分自身ではないのです。いつでも見たい時に見て、見たくなければ見ません。テレビを見るのと同じです。見たければスイッチを入れ、見たくなければスイッチを切ります。カセットテープを聴くのと同じで、悲しい音楽を聴きたければその種の曲を流し、聴きたくなければ別の曲に変えます。すばやく変わるのです。
もし私たちがこの世の中に身を置いていてもこんなふうにできるならば、喜怒哀楽は私たちにとって悟りをもたらすものです。私たちはこの世界でやはり他の人々と共に住んでいますから、喜怒哀楽の状況を避けることはできません。なぜなら私たちは彼らと接しなければならないからです。鏡と同じです。鏡は話しません。自分が醜い姿であれば鏡は醜い様子を映し、自分が美しければ美しい容貌を映します。頭に二本の角が生えていれば、それは同様に二本の角を映して自分に見せ、牙があれば鏡は必ずこの様子を映して見せます。鏡はみなさんを助けてお化粧したり、牙を覆ったり、二本の角を取ってくれたりはしません。それはただ一枚の鏡にすぎず、どんな時も、きわめてはっきりと、忠実に反映するのです。修行者も同様です。私たちはこの世界に住んでいるので、世間の人々と同様に喜怒哀楽もありますが、これらはただ状況の反映にすぎないのです。

  ですから、悟った人はたとえ喜怒哀楽があるように見えても、実際にはそうではなく、すばやく自分の情緒を換えることができます。笑いたければすぐに笑い、泣きたければすぐに泣き、今泣いていても、すぐに笑うことができます。私たちには、その人がいったい悩んでいるのか、楽しいのかわかりません。たった今怒って泣いていたかと思うと、もう笑っているのですから。喜怒哀楽がとても自在なので、感情にコントロールされないのです。時には他人に合わせるため、自分も喜怒哀楽があるふりをします。

  済公という名の活仏のようなものです。彼の神通力はとても大きく、大変自在な人と言われていますが、多くの人が彼を狂人扱いして「済癲」    と呼びました。しかし、実は、彼は偽の狂人なのです。彼が肉を食べたり酒を飲んだりするのを見た人がいたようですが、実際は、そういうふりをしていたのです。彼は元々飲食する必要がないのですから、酒を飲んだり、肉を食べたりするはずなどないのです。肉を食べた証拠を探そうと、彼の食べ残しの骨を取りに行った人がいますが、結局その人が手に入れたのはひょうたんでした。時には、肉を食べているのが見られたこともありましたが、彼が振り返るとお経を唱えていて(笑い)、肉はみな消えてしまいました。

  私たち凡夫は大修行者の行動を見透かすことができず、いい加減にめちゃくちゃな判断をするので、世々代々輪廻するのです。偉大なマスターが来ても大したことがないと考え、二流のマスターが来ても見分けがつきません。私について長い間学び、しばらく私と暮らした人たちがいますが、やはり私の教理と他の人の教理は同じだと言います。他の人たちは大して修行していません。見た目にはまるで私と同じでも、実際にはとてもたくさんの違いがあるのです。

 

                 神通を使えば、我執が増える



  ですから、結論として私たちには神通力があってはいけないのです。神通力があれば必ず我執があり、私たちにこの宇宙がコントロールできるとすれば、必ず我執があります。仮に、今私が「ああ、雨は降るべきではない。雨よ止まれ!」と言って、雨がすぐにやんだとしたら、みなさんは大喜びして、一斉に拍手喝采するでしょう。その後、朝から晩まで私の所へ来て「マスター、雨を降らせないでください」と要求するでしょう。雨の好きな人は、「マスター、雨が降れば絶対ロマンチックです。(笑い)中に座って雨だれの響きを聞くと、とても美しい音で、そうすれば涼しくなります」と言います。それから、私は朝から晩までみなさんの頭のそういった考えに忙しくなります。少したったら太陽が出なければならず、しばらくすると雨が降らなければならないなどなど。そうしたら、とても面倒です。しかも、私自身もとても得意になるでしょう。もし、毎回みなさんが何かを要求し、私がみなさんの目の前ですぐにそうして見せれば、私の我執が段々と大きくなるのは避けられません。

  真のマスターの我執はすでに完全に消失していて、再びそれを捕まえて来ることはできません。ですから、そういう人はそういう小さな神通力を使ってみなさんに見せることはしません。たとえ、みなさんがその人を信じなくとも、気にしません。なぜなら、そういった小さな神通力を用いて人を引き付けたりはせず、大きな真理、大きな論理を用いて、みなさんにはっきりと理解させ、自分がどうして信じるのかをわからせるからです。「フラ、フラホン!」といったような方法で人をそそのかしたりしません。そういう事は、多くの魔術師や呪術師にできることですから、サーカス団の所へ行けば見られます。今、インドにもできる人がいます。みなさんが食べたい物は何でも空中から物質化して食べさせることができます。出した物は本物と同じで、たとえばヒマラヤでもミカンが食べられるのです。彼は「フラホン」と呪文を唱えてミカンを出してくれます。欲しい物は何でも物質化できます。しかし、しばらく見ると疲れてしまいます。大した事がないとわかり、あきてくるのです。

  物を変化させるには、とても多くのパワーを消耗し、私たちに我執を持たせ、解脱できなくさせるばかりかパワーを浪費するので、私たちは高い境界(きょうがい)に行かれなくなります。だからこそ、神通力を使ってはいけないのです。例えば、霊的な力で病気を治すのも同じです。そういう人は、人の病を治すために非常に多くのパワーを浪費して俗世間でみな使い果たしてしまうので、三界を越えることができません。例えて言えば飛行機のようなものです。飛行機はどれだけの燃料を積めるか、何キロ飛べるか、すべてあらかじめ手配されています。しかし、もし飛び立たずに、ただ飛行場の滑走路を行ったり来たりするだけだったり、あるいは少し飛んだだけで、空中で旋廻して人々にパフォーマンスして見せるだけならば、しばらくすると燃料を使い果たしてしまいます。そしてもちろん落ちてしまって、目的地には行かれません。

  私たちの人生も同じで、どの人もどの位の時間、何回の呼吸があるかはみなすでに定まっていて、私たちはどの位の時間を修行に割いて聖人になれるのかも定まっています。もし私たちがそれらの時間とエネルギーを十分に利用して急いで修行して聖人にならなかったならば、そのうちに死んでしまいます。つまり私たちの時間は限りがあるので急いで修めるべきで、ゆっくりと修めればよいとは言えません。ゆっくりはできませんよ。なぜなら、私たちには、自分に使える「燃料」があとどの位あるのかがわからないからです。飛行機なら知ることができますから、状況はまだましです。それで、私たちは今飛べる所まで急いで飛ぶのです。立ったまま時間を浪費してはいけません。しばらくすると夜になり、道は全く見えなくなり、燃料もなくなってしまい、とても危険です。その時、後悔極まりないですよ。

  私が神通力を使ってはいけないと言うのは、そういうわけなのです。私たちは自分の「燃料」を浪費し、パフォーマンスして人に見せてはいけません。しばらくして落ちても、誰も私たちを見ません。飛行機が横たわっているからといって、誰が一日中そこに立って見るでしょうか。私たちも同じです。自分の「燃料」を使い果たして最後の時が来ると、私たちの死体はそこに横たわり、膨れ上がってまだらになります。その時は、誰もみなさんを見たくなどありません。たとえ最愛の夫であっても、一日中抱きしめていたりはしません。あるいは最愛の妻であっても、急いでそのなきがらを埋めます。さもないと臭気を放ちますから。たとえ生前に百万個の神通力があって、風雨を呼び、雲や霧に乗って自由に行き来できても、死んでしまってまで誰も見る気はしませんね。

  みなさんはなぜ私が神通力を使うのを奨励しないかを理解しなければなりません。私たちは生死を超越するべきで、永遠にこの世界に戻って来るべきではないからです。ですから、ここで神通力で遊んではいけないのです。誰かに神通力があると耳にしたら、その人は最もくだらない人ですよ。その人に近づかないのが一番です。さもなければその人の影響を受けて、その人に従ってここで「フラ、フラホン!」と遊ぶことになります。そして聖号を念じることを忘れ、時間とパワーを無駄に浪費してしまいます。

  私たちは智慧眼に注意を集中し、魂を急いで上に飛ばさなければなりません。速ければ速いほど良いのです。もし今日まだできなかったらば、明日再び試してみてください。明日まだできなければ、あさって、また試してみてください。毎日試してみるべきです。生まれたばかりの小鳥のようで、まだ飛べず、少し飛ぶと落ちてしまいますが、小鳥は毎日練習して、しばらくすると飛べるようになります。鵬(おおとり:中国の想像上の鳥)も同じで、生まれてすぐに飛べるわけではありません。鵬は毎日自分で訓練するからこそ飛べるのです。もし、鳥が雛の頃から鳥かごに閉じ込められていれば、その鳥は飛べず、たとえ翼があっても「飛ぶ」ということの意味を知りません。同様に、私たちの魂には飛ぶ能力があるのですが、これまで誰も私たちに教えてくれなかったのです。でも、今は私が教えたのですから、みなさんは毎日試し、毎日飛ぶ練習をすべきです。いつか飛んで行くことができるまで練習し、その時、魂は自由になるのです。



智慧の真珠


知能を正しく使い、徹底的に分析して慎重に行動する

スプリームマスター チンハイ フォルモサ・西湖 (中国語)1992.4.25 ビデオテープNo.243


  私たち修行者が進歩を望むのであれば、最も良いのは十分に内省することです。自分のどこに欠点があるのか、行動はどこが不合理であるかを見つけて、毎日自分自身を分析して反省すべきです。もしどこかに正しくない行為があるとわかれば、原因を探し出すべきです。自分の頭脳を正しく使っていなかったり、行動した時にしっかり分析していなかったり、あるいは自分であまり真剣に考えていなかったのではないでしょうか? 注意深く自らに気を付けるべきです! さもなければ、私たちはみな「難民」です。人が言ったことに何でも同意し、人が教えたことをすべて受け入れていたのでは、私たちはゴミ箱になってしまいます!

  私たちの頭脳は本来みなとてもすばらしいのです。誰の頭脳もみな大体同じです。しかし、どうして釈迦牟尼佛は自分の知能を正しく使うことができたのに、私たちは適切に利用できず、いたずらに浪費してしまうのでしょうか? ですから、私たちは自分に対して少し用心深くしなければなりません。いかなる状況でもすべて分析し、正確であるかどうかを徹底的に検査すべきではないでしょうか? 釈迦牟尼佛は、彼の話したことでさえも、弟子たちはやはり明確に分析してから信じるべきで、誰が話したことであっても盲信せずに、それが論理的であって初めて私たちは信じるべきであると言いました。彼はとても明快に話しました。彼は自分の話さえも例に挙げて弟子を教育したのです。ですから、私たちは注意深くなければなりません。どんな考え方であっても、それが新しくても、古くても、もし理屈に合わず、不適切で、あまりにも面倒で、あまりにも複雑で、また誰の利益にもならず、自分の利益にもならないのならば、それはすべき事ではないのです。 



あなたは知らないかもしれない


新聖人の物語

アメリカ・フロリダセンター 長住者 (英語)


                     地球の浄化

  2003年の始まりは、この地球にとって大きな変化のときでした。中東で戦争が勃発した時、世界は偉大なる霊的なマスターの恩恵によって、より壮大な規模で霊的な浄化が行われていました。この浄化は2,000人の同修が5日間静寂の中でメディテーションをした2002年のクリスマスリトリートから始まりました。マスターは「私たちのグループを浄化した」ことを公表し、リトリートの最後には、ある修行仲間が大変高い悟りのレベルに到達したことを発表しました。

  マスターはリトリート中に弟子たちの面倒を見ている間でさえも、フロリダセンターの中の建物をいくつか修理したり移動したりする骨の折れる作業を指揮し始めており、私たちが使うネジや釘の種類に至るまで指示を出しました。作業はその年で最も寒い数日間も含め夜遅くまで続けられました。これは本来、マスターがリトリート期間中に集めたカルマを洗い流すために休息するはずの時間だったのです。数週間にわたり、その作業はマスターの寝室に隣接した部屋で行われていたため、マスターはちゃんと休むことができませんでした。マスターは朝、しばしばハンマーやドリル、電気のこぎりの騒音に囲まれてメディテーションをしていました。あたかも工事現場のようにマスターの部屋を建築スタッフが行きかい、こぎれいに積み重ねられたマスターの衣類を部屋の隅に見ることもありましたが、彼女はそうした状況に対して不平を言わないばかりか、まるで何事も起きていないかのように静かに周囲を歩いていました。

  そして2003年2月20日、マスターは予定より4日早く彼女自身が霊的修行において更に高い悟りのレベルに達したことを公表しました。その悟りのレベルというのは、この世の言葉では言い表せないとのことでした。2月24日の午前2時、マスターは、何人かの長住者を含む私たち観音ファミリーの多くの仲間たちが不退転の意識レベルに到達したという素晴しいニュースを伝えるため、西湖道場に電話をしました。電話の間、マスターは紙の山をめくり続けていましたが、それはここ数週間、時を選ばす情報が入ってくるので数を数え続けていたためだということでした。こうして可能な限り、どこででも書き留めねばならなかったのです。西湖道場への電話が終わってから、マスターはとても興奮した様子で午前5時まで私たちとお茶を飲みました。それから、前夜から寝ていない私たちに、眠らずにすぐにメディテーションホールへ行くことを提案しました。

 

                 マスターからの啓発と愛

  私たちがメディテーションをした後で、マスターはまた私たちに電話をして、今日は良い日なので、ある場所に午後2時までに行って9時までメディテーションするように、と言いました。普段とは異なる状況に、私たちは次に何が起こるのか全く予測できませんでした。

  4時間ほどたった頃、マスターは電話で、もう十分メディテーションをしたと言いました。私たちは部屋に戻ると何かが変わっていることに気づきました。先輩の出家者が出てきて、何があったのかと尋ねました --- 誰かが彼のバスルームを使ったらしいのです。この時、本当は何が起こったのかを私たちは悟りました、マスターが私たちみんなのバスルームを掃除しに来てくださったのでした!

  3日後にはキッチンに不可解なメモ書きがありました。その日のクッキングチームは食事の準備をしなくていいと書かれていたのです。昼食をとりに来た私たちは、誰かが最高においしいヌードルを鍋一杯作っておいてくれたのに気づきましたが、それは翌日まで十分足りる量でした。それから3日間、マスターは毎朝こっそりやって来ては長者住全員の分の食事を準備しました。彼女はこのようにして長住者との立場を完全に入れ替えたのでした。マスターは大騒ぎをすることも、たくさんの道具を使うこともなく、2時間で長住グループ全体に十分過ぎるほどの食事を準備し、しかも、それらは私たちがこれまで食べた中で最も満足のゆくものでした! マスターは、ある日は麺類、ある日はカレーとパンというように一日一品を準備したのですが、それらにはたんぱく質と野菜がバランスよく入って調和がとれていました。このようなシンプルな方法で食べるのはとても楽しく、私たちはマスターの料理を、これからは通常のクッキングチームの手本としていくことにしました。

  マスターはまた、私たちにバランスのとれた生活を送るよう励ましました。長住者一人ひとりの毎日の予定をチェックして、私たち全員がバランスよく屋外の労働や自然環境の整備といった仕事をしながら屋内の仕事もしているかどうか確認しました。マスターは冗談めかして、さもなければ私たちの筋肉はたるんで床についてしまい、自分でそれを踏んづけてしまうかもしれないと話しました。また、私たちがどういった種類のせっけんやシャンプーなどを使っているかまで気にかけて、どのブランド― 一般的に肌に優しくより自然なもの―を買えばよいかを話しました。他にも、「神を思い出す(Remember God)」という小さな標語をセンターのいたる所に貼る、という素晴らしい提案をしましたが、この単純な二つの単語の持つ肯定的な影響には、目を見張るものがありました。

  また新しい指示として、名前やあるいは同(Tong)で始まる私たちの名前の変わりに「聖人」の称号を使うようにというものがありました。しかし、そのことで相手に必要以上の敬意を払うというわけではないのです。最初の聖人たちからスタートし、新しい聖人が誕生するたびに私たちは彼らを「なになに聖人」と呼んだのでした。これは私たちが互いに相手の智慧眼を見るのと同じで、センター内に大変崇高な雰囲気をかもし出しました。また、まだ聖人になっていない長住者たちがより一生懸命修行するための励みにもなりました。

  マスターはかつて、聖人の一人にどのようにしてそんなに早く進歩したのかと尋ねたことがありました。その長住の女性は、ずっととても幸せだったからと答えました。マスターは、私たちが楽しくてリラックスしている時は私たちを引き上げるのが容易だと説明しました。おそらくそういう理由でマスターは私たちをあんなにも褒め称えて、しばしばお茶に招待したり冗談を言ったりしたのでしょう。マスターはひとつのジョークを幾通りにも脚色し直して話をしては、一時間も笑い通したこともあります。(本誌掲載の「マスターの笑い話<三行広告>」をご覧ください)また、マスターは誰がもっと修行が必要なのか一目でわかり、その人たちをメディテーションしに行かせたにもかかわらず、私たちと一緒に映画を見たりもしました。しかし、ある男性の修行仲間が一人でリトリートをしなければならなかった時には、マスターは自ら長住者に言って毎日加持物を彼に届けさせました。

  マスターは最初の聖人たちに対して特に寛大で、彼らが外出する時は自分の車を貸すことさえしました。また、小さな4棟の家を彼らが個人的に使えるように改修の指示を出しました。そしてクライマックスは、長住のメンバーを2日間、洋服や本、ビデオなど好きなものを何でも買いに行かせた時です。ある人は作業を終わらせたいからと、行きたがりませんでした。しかしマスターは、衆生は数千年にもわたって苦しんでおり、お祝いできないほど私たちの仕事がとても重要だと思うべきではないと、後で彼女に言いました。私たちが買い物から戻ると、マスターの準備した、同心円状に美しく並べられたサンドイッチとフルーツサラダがありました。

  数日後、マスターは夕食にやって来て、鳥小屋を作るのを手伝ったメンバー全員に最後の贈り物をしました。現金の入った赤い封筒をごほうびとしてくれたのです! マスターは本当にこの世から何も受け取らないのです。そして私たちにプレゼントを手渡した後、仕事があるので立ち去らねばならないことを詫びました。私たちが出かけて楽しんでいる間、マスターはリトリートをしていました。彼女はセンター内の離れた所にずっといたのですが、あまりに静かで、そこにまだマスターがいると気づかないほどでした。マスターは私たちに食べ物や他の物を持って来るように頼むことはなく、すべてを自分でしていたのです。しかし、時には、夜遅くに動物たちを見回っているマスターの姿を目にすることもありました。

  4月24日、私たちは新しいニュースを受け取りました。それは前回のリトリート以来、数百万、数十億といった数の衆生が聖人の域に達したというものでした。これは私たちにとって大きな驚きでした。マスターは長住者たちを個人的に訓練している間にも、世界を加持し続けていたのです。これはフロリダセンターの長住者にとって大きなテスト期間だったのです。5月15日午前5時にマスターが電話をかけてきた時、私たちは大喜びしました。この時期にセンターに滞在していた全員がすでに高い意識段階へ到達したという知らせだったのですから --- たった一人を除いて --- 「その悪い子」はさらに高く上り、長住者の中で最初に第五界にまでも到達したのです! 私たちがちょうど2日間のリトリートを終えたばかりであることは、誰もマスターには伝えていなかったのですが、彼女はわかっていました。メディテーションホールの外で携帯電話に群がった時、私たちの誰もが、まるで美しい声をした鳥が新しい日の訪れを知らせるかのような、マスターの嬉しそうな声を聞いたのでした。

  私たちはこの驚きの時期、この惑星が進化を遂げた偉大なる転換期と言えるこの素晴しい時間を、永遠に心の中に大切に抱き続けるでしょう。マスターの肉体的存在によって加持されたか否かに関わらず、マスターは私たち全員を向上させてくださったのです。

  マスターに感謝します! 神に感謝します!



笑い話

 

三行広告


月曜日:売ります。
R.Dジョーンズ ミシン1台。
電話948-0707午後7時以降。詳細は彼と安く住むミセス ケリーまで。

火曜日<訂正告知>:昨日のR.Dジョーンズ氏の広告について誤りがありました。
お詫びして以下の通り訂正します。「ミシン1台安く売ります。電話948-0707。
詳細は彼と午後7時以降に同居のミセス ケリーまで。」

水曜日<訂正告知>:R.Dジョーンズ氏より、昨日の間違い広告のため何件もの迷惑電話があったと当社に通知がありました。正しくは以下の通りです。「売ります。R.Dジョーンズ ミシン1台。安価。電話948-0707午後7時以降。詳細は同居者ミセス ケリーまで。」

木曜日<訂正告知>:私、R.Dジョーンズには既に売るミシンなし。粉砕済み。
電話回線接続解除済みにつき948-0707に電話不要。
ミセス ケリーと私的関係なし。(彼女は)当家の家政婦を昨日退職。




問答精選


ソウルメイト(魂の伴侶)とは?

スプリームマスター チンハイ 南アフリカ・ケープタウン 1999.11.27. (英語) ビデオテープ No. 669


Q
: 対となる二つの魂、そしてそれ自身が持つ男性的な面と女性的な面についてご説明ください。

M
: 対となる魂などありません。魂はすべて別々です。しかし、ときどき自分にとても合う人に出会うことがあり、そういう人のことをソウルメイト(魂の伴侶)と呼ぶのです。

  ずっと昔に、違う肉体を持って一緒に働いていたり、生活を共にしていたり、愛しあった魂があったとします。それから私たちが、再び別の肉体をまとって、いわゆる輪廻したこの魂に出会った場合、とても親近感を持ちます。というのも、以前いろいろな事をいつも一緒に行ってきたので、すべてがとても気軽だし、気が合うし、調和が取れるからです。

  それで、そういう人のことをソウルメイトと呼んでいるのです。私たちはいつでもそういった人々に出会います。すでに、このいわゆるソウルメイトに出会っている人たちは、お互いに幸せな結婚をしていたり、とても仲が良い兄弟姉妹であったり、親子だったりします。その人たちの人間関係はとても良好です。これがソウルメイトというものです。

スプリームマスター チンハイ アメリカ・ワシントンD.C.・ジョージタウン大学、1993.4.14. (英語) ビデオテープ No. 352

Q: この世にソウルメイト(魂の伴侶)というような特別な事象が存在するのでしょうか?もし存在するのなら、ソウルメイトには霊性上、人々にとってどのような意味がありますか?

M: ソウルメイトとは、その人に会うとお互いに強く惹きつけられたり、生活や、特に修行の過程において、お互いに補い合えるような人のことです。それが、ソウルメイトといわれるものです。しかし、2元性のない世界では、ソウル(魂)もメイト(伴侶)もありません。ソウルやメイトという言葉はこの世における単なる専門用語です。ですから、私たちがこの世にいる間、とにかく伴侶が必要であるならば、とても強く惹きつけられる人や、修行上の努力におけるのと同様、日常生活の活動の中でとても助けになってくれる人は、誰でもソウルメイトといえるのです。

 

ソウルメイトと接することは必要なことか?

スプリームマスター チンハイ 南アフリカ・ケープタウン、1999.11.29. (英語) ビデオテープNo. 674

Q: ソウルメイト(魂の伴侶)についてお聞きしたいと思います。ソウルメイトと接する必要がありますか? もし必要なら、ソウルメイトと接するとどうなりますか?

M
: この人生において、もし必要ならばそれは必要です。もし必要なければ、それは必要ありません。みなさんにはすぐわかるでしょう。本当に私たちにはたくさんのソウルメイトがいるのです。一人だけではありません。ただ単に必要がないため、私たちのたどる道が常に交わっているわけではないのです。



ソウルメイトと出会う方法は?

スプリームマスター チンハイ タイ・バンコク 国際禅六 1999.12.28. (英語) ビデオテープNo. 677

Q: 私は独身者として、他の独身者の代弁をしたいと思います。ソウルメイト(魂の伴侶)と出会う最良の方法を教えてください。

M
:ソウルメイトというようなものが存在するのか、私にもわかりません。みなさんには時々、これがあってあれがないというような事がありますから。もし、本当に知りたければ祈るべきです。ソウルメイトを得た自分を思い描いてください。あなたの望むソウルメイトは、こんな風に美しく、徳が高くて、こういう品性であるに違いない、というように並べ上げ、あなたがそのソウルメイトに望むすべての品性を一つひとつはっきりと書き出してください。そうすれば、ある日その人に出会った時にわかります。

  あなたはそのように思い描き、そして書き留めるのです。あるいは自分のソウルメイトのように思える女性に出会ったら、少なくとも見かけがそういう感じの女性だったり、外見が好みの女性だったなら、それを描いてください。あるいは、思い描く女性に似た人の写真を撮ってもいいでしょう。同じことです。それを視覚化しなければなりません。そうすればある日実現します。

 

偏在すればソウルメイトを見つける必要はない

スプリームマスター チンハイ アメリカ・カルフォルニア・サンジョゼ 1994.6.30. (英語) ビデオテープ No. 437

Q: すべての人にソウルメイト(魂の伴侶)がいますか? もしそうなら、解脱する前にソウルメイトを見つける必要がありますか?

M
: ソウルメイトですか。いるでしょうね。ただ、ソウルメイトには、もう解脱した人もいます。そうするとこの世でその人を見つける必要はありません。しかし、まだここにいる人もいますから、待たなくてはならないのです。

  実際、こういうことなのです。もしあなたに何かを切望する気持ちや、欲望といったものが何も無くなってしまったら、自分のソウルメイトが、たとえ天国にいようが地獄にいようが関係ありません。あなたは無欲の境地まで向上し、到達しなければならないのです。そうなれば、ソウルメイトはどこにでもいるかもしれませんし、どこにもいないかもしれません。なぜなら、あなた自身が偏在するからです。そうなってしまえば、ソウルメイトは必要なくなります。




智慧の真珠


魂の仲間

スプリーム・マスター・チンハイ ニュージーランド・オークランド 2000.4.27.(英語)ビデオテープ.686


  みなさんは、なぜ自分が素晴らしいかをご存じですか。それは、みなさんは私だからです。(拍手) 私たちが信じがたいほど優れているのは、私たちがひとつだからです。

  魂は本来、私はここにいるのだから私の魂はここにしかない、というものではありません。そういうものとは違うのです。私の魂はここに存在する肉体よりずっと大きいのです。ここよりも大きいかもしれません。(マスターが部屋全体を示すしぐさをする)ここのすべてが私自身かもしれませんが、そうではないように見えるだけなのです。けれども、神は唯一で、誰もが神と一体である、ということを言っているのではありません。今話しているのはそういうことではなく、一つの個体は、たくさんのいわゆる肉体と呼ばれるものを包括した偉大な魂を持ち得る、ということなのです。ですから、自分が相手と同じだと感じる場合があるのです。

  時々、ふたりの人間が同時に、全く同じことを考える事があるのと同じです。それは、魂がひとつだからです。人は神と一体だから、あるいは互いが一体だからだということではありません。人々はみなひとつの魂を共有した、ちょうど双子やソウルメイトのようなものなのです。ソウルメイトはひとりではありません。たくさんいるかもしれないのです。ある目的を持った偉大な魂もあり、それは他の多くの存在の中にあるのです。だからこそ私たちは兄弟や姉妹のように感じ合い、ひとつであると感じるのです。兄弟や姉妹、お母さん、お父さんといて居心地がいいのは、彼らがまさに自分自身だからです! 自分が彼らを家族と位置づけているだけで、実はみなひとつなのです。ひとつの魂とたくさんの個体なのです(拍手)。

  「あの人とは相性がいい」「彼女、あるいは彼は私のソウルメイトだ」などと言うのは、そういうわけなのです。なぜなら、それはまさしく自分だから、自分そのものだからです。それは、ひとつの魂に含まれる、自分のソウル・グループということです。神と一体であり、誰とでも一体でありながら、私たちは個別の魂を持っているのです。その魂には、大きなグループの人々が住むことができるのです。しかし、外見はみな違って見えます。  

  それで、私たちはあるグループの人と一緒にいると心地よく感じる場合があるのです。しかも、共に過ごすのが長ければ長いほど、より強いパワーを感じます。それもそのはず。私たちは自分自身と一緒に家にいるのですから。共に過ごし、共に平和でありましょう。ちっとも不思議ではありません、私たちがとてもうまくいっているのに、何の不思議もありません! みなさんは、自分が私であると想像できますか?(笑い)。



霊性と科学


宇宙の秘密に関するニュートンの研究

ジェニファー・呉 アメリカ・テキサス・オースチン (英語・中国語)

  アイザック・ニュートン(1642-1727) は、歴史上最も優れた科学者の一人です。 彼の研究は物理学のあらゆる面を網羅していますが、とりわけ実験物理学や理論物理学、化学、応用数学に重点が置かれています。彼の多くの科学的業績のうち、微積分法の発明、光のスペクトル分析、力学体系の建設、万有引力の原理の導入、反射望遠鏡の発明などは特に卓越しており、その成果は現代科学の基礎を築きました。

  彼は生涯をかけて宇宙の神秘についての研究を熱心に行い、無神論者は愚かであると考えて、次のように述べています。「太陽系を観察すると、地球は、太陽から光と熱を適度に受けるのにちょうど良い距離に存在しているのがわかるが、これは偶然の現象ではない」。

  科学的功績もさることながら、ニュートンは聖書を毎日読み、中でも、聖書の中の預言と錬金術の勉強にかなりの時間と労力を費やしました。彼は自らの分析に関するメモを大量に書き残しており、聖書の暗号やキリストの再臨と世界の末日(ヨハネの黙示録)の日付についての預言を解読しようとしていました。この事について、彼は「聖書は*『神の言葉』を、霊感を受けた人が書いたものだと私は堅く信じている」と書いています。

  彼は、亡くなる少し前に自分の一生を振り返り、こう言っています。「私は世間が自分をどう見ていたかはわからないが、自分では、真理という大海が全く知られることなく目の前にあるにもかかわらず、時々海岸で丸い小石やきれいな貝殻を見つけて、夢中になって遊んでいる子供みたいなものだと思っている」と言っています。

  彼がこの世を去った時には、聖書に関する大量の手稿が残されていました。死の6年後、「ダニエルの預言とヨハネの黙示録に関する見解(Observations upon the Prophecies of Daniel and the Apocalypse of St. John)」と題されたこれらの手稿を含めたニュートンの著作が出版されました。彼の手稿の多くは収集家の元に行き、その後、エルサレムにあるヘブライ(ユダヤ)国立図書館に収蔵、目録化されて、1960年代末期より一般に公開展示されています。

  最近、あるカナダの学者がニュートンの手稿を研究していて、キリスト再臨の預言に関するメモを偶然発見しました。ニュートンは、疫病や戦争の後にキリストが再臨し、その後、聖人たちが1000年にわたって地球を治め、彼自身もその聖人グループにいるであろうと予言しています。その学者はさらに、聖書の「黙示録」で預言されているこの大事件の明確な発生時期が書かれた紙切れを発見しましたが、そこには、西暦2060年となっていました。
ニュートンの予言については、イギリスのBBC2ネットワークの特別テレビドキュメンタリーで2003年3月上旬に放送されました。詳細は、以下のウェブサイトをご参照ください。

http://www.rense.com/general35/isa.htm
http://www.blueletterbible.org/Comm/isaac_newton/prophecies/
http://www.bbc.co.uk/religion/tv_radio/miscprogs/newton.shtml
http://www.scifitoday.com/story/2003/2/23/21450/4036 

photo: ss1-2.jpg

* 旧約聖書にある「神の言葉」参照





甘露法語


修行のみが病気や苦しみを根絶する

スプリームマスター チンハイ 韓国・釜山 1992.3.23(中国語)ビデオNo.234

  私たちがしっかり修行すると、カルマが消えて自然に病気から回復します。それこそが永久的な神通力です。そして、私はみなさんに道徳、戒律、菜食について教えていますが、それも、より永久的な神通力です。多くの病気に苦しむことなく、心身をより永遠に保護するのです。それで、私はみなさんに修行を通して自身のカルマを消して欲しいのです。そうすれば、自分の持つたくさんの障害や病気も自然に少なくなりますよ。




マスターが話す物語


真に幸福な人

フォルモサ・西湖1992.07.12 (中国語)ビデオテープNo.268

  これはユダヤ人の間に伝わる民話です。大金持ちで、財産のたくさんある人がいました。ある日、彼は重い病にかかりましたが、回復する方法がありませんでした。彼はとてもお金持ちでしたから、家族は各地から大勢の有名な医者を呼び寄せて、病気を診てもらいました。しかし、誰一人として治すことはできませんでした。

  病気は徐々にひどくなり、彼を救える薬はなく、治る見込みはなさそうでした。家族があきらめかけた時、遠方から来た一人の修行者が通りがかり、彼らに言いました。「もしあなた方が、とても幸福な人を探し出すことができたなら、その人の身に着けている服を持って来てお父様に着せれば、病気は良くなります」

  富豪の家族はそれを聞くと、至る所へ幸福な人を探しに行きましたが、各地をくまなく探しても、本当に幸福な人は見つかりませんでした。彼らが見つけた人々の幸福は、みな完璧なものではありませんでした。ですから、本当に幸福な人とは言えません。彼らはこうしてずっと探した末に、全く希望を捨ててしまいました。しかし、その富豪には非常に親孝行な息子がおり、父親と別れがたく思って、何としても病気を治そうと考えました。そこで故郷を離れ、とても遠い地へ行きました。本当に幸福な人を探そうと決心したのでした。

  ある日、彼は歩き疲れて、空も暗くなったので、ひと休みする場所を探そうと思いました。その時、うまい具合に山の洞穴を見つけたので、そこで休んで夜を過ごすことにしました。洞穴の入り口まで来ると中から声が聞こえてきました。「ああ! ぼくはなんて幸せなんだろう! 今日こんなにすばらしい一日を過ごした。毎日がとても幸せだ! 何もかもうまくいって、何もかもとても面白くって、楽しい! ぼくは最高に幸せな人間だ! 本当に幸福な人間だ!」その声はずっとこう言い続けて、とてもうれしそうな笑い声をあげました。そして、またその人が言うのが聞こえました。「ああ! 眠くなってきた。楽しく眠りにつこう。たとえ今死んだとしても、とても幸せだ!」(笑い)

  富豪の息子はこれを聞いて、もちろん大喜びでした。心の中で「お父さんの病気をこれで治せる!」と思いました。そして、急いで洞穴の中に走って行き、話している人を探して服を取ろうとしました。ところが、中に駆け込んで見ると、その人は全裸でした。(笑い)何も服を着ていなかったのです! 彼はそこに立ったまま、途方に暮れてしまいました。

  その幸福な人は、彼のとても失望して挫折した様子を見て、「どうしたのですか?」と尋ねました。富豪の息子は「私はある物を探しているのですが、見つからないのです」と言いました。幸福な人が聞きました。「何を探しているのですか?」「私の父は病がとてもひどいのですが、ある修行者が、もし私が本当に幸福な人を探し出せたなら、その人の服を取って来て、それを父に着せれば病気はすぐに良くなると言ったのです。それで私はここに来て、あなたの服を取ろうと思ったのですが、まさかあなたが何も着ていないとは思いもしませんでした」幸福な人は言いました。「ええ! もし私が服を着ていたら、こんなに幸せにはなれません!」(笑いと拍手)

  彼は、もし彼に何か財産があれば、それが負担になり、それほど幸福ではなくなるということを言ったのです。なぜなら、彼は全く何も持っていないので、ストレスがないからです。何も失う恐れがなく、他人が盗みに来る恐れも、自分の物が壊れる恐れもなく、また明日なくなったらどうしようという心配もいりません。何もないので他人と比較のしようがなく、人の物が自分の物より良いということも恐れずにすみます。ですから、何の憂いもなく、何の心配もなく、他人が盗みに来る恐れもなく、他人が彼を傷つける恐れもないわけです。だからこそ、彼はこんなにも幸せなのです。

  この物語にはとても修行の趣があります。というのは、私たちは財産がなければ幸福になれるということでもないし、たくさん財産があるから心配になったり、幸福になったりするわけでもないのです。この幸福であるかどうかは、財産によって計ることはできないのです。重要なのは、私たちの心です。たとえ財産があっても、それを重視せず、正しい所にそれを用いれば、財産がないとも言えますし、執着していないとも言えます。仮に、私たちが財産がないうえ、お金も稼げないとします。そして、考えます。「ブドウが食べられないから、ブドウは酸っぱい、と言おう」(笑い)これでは、真に幸福な人とは言えません。

  物語の中のこの人は、恐らく真に幸福な人です。彼の口調からわかります。実際、真に幸福な心は財産によるのではなく、また貧窮によるのでもありません。しかし、多くの人にとっては、もしあまりにもたくさんの財産があると、簡単にそこに縛られてしまうのです。

  たとえ自分では縛られたくないと思っていても、無意識のうちに縛られてしまうこともあるのです。それを大切にしなければ、やりくりしなければ、しっかり管理しなければと。一方ではまた、他人に取られることを恐れ、他人の嫉妬を恐れ、あるいは自分の子供がそれを浪費して無くしてしまうことを恐れるなど、たいへん多くの事を心配しなければなりません。決して貪欲な心でなくても、財産があれば管理が必要なのです。しかし、もしなければ、構う必要などないのです。



笑い話


良いニュース? 悪いニュース?

スプリームマスター チンハイ 韓国・永同道場 国際禅六 2000.05.09(英語)ビデオテープNo.696

  あるお金持ちが心臓発作で病院の救急室に運ばれました。彼の三人の息子と四人の娘は、廊下を行ったり来たりして待っていました。医者が救急室から出てくると、全員が駆け寄って尋ねました。「いい知らせですか?」その医者は頭を振って答えました。「大変申し訳ないのですが、悪いお知らせです」みなが「悪い知らせですか?」と聞くと、その医者は答えました。「はい。お父さんはまだまだ長生きしますよ」

 

メッセージを受け取ったのは誰?

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ 2000.05.13 (英語) ビデオテープNo.747

  ある夫婦が友人を夕食に招きました。しかし、彼らの好きな料理の量が足りなかったので、妻は夫に言いました。「あなたの友達が二つ食べ終わったら、もっと食べるように勧めないでね、いい?」夫は「わかったよ」と言いました。しかし、友達が料理を二つ食べ終わった時、夫はそのことを忘れてしまい、「もっといかがですか? 台所へ行って取ってきましょう」と言いました。そこで奥さんはきつく睨みつけ、その友達は、「いえいえ、けっこうです」と言いました。それでも夫はさらに勧め続けたので、奥さんはますますきつく睨みつけました。すると友達はあわてて「いいえ、いいえ、もうけっこうです!」と前にも増して固く断りました。その後、友達が帰ってから、妻はひどく怒って夫にどなりました。「なぜあんな事を言ったの? 二つ食べ終わったら、もう勧めないでって言ったじゃないの。それなのにずっと勧め続けて。もうないと言うべきだったのよ!」「ごめん、すっかり忘れていたよ」と夫が答えると、「忘れたですって? テーブルの下であなたの足を蹴ったのに、分からなかったの!」と妻が言いました。すると夫は、「えぇっ? 僕は蹴られてないよ。それは友達の足だ!」



魂の高揚

               スプリームマスター チンハイ
             智慧の漫画集
                神は全てを世話してくれる
                 (中国語版、英語版)

 


  老人から子供まで、どんな年齢層にも適したこの本は、マスター チンハイが語った20編のすばらしい物語を集めて生き生きとした楽しい漫画で表したものです。それぞれの物語に深遠な寓意があり、大きな教育的価値を備えているため、心に深く触れて読む者を喜びでいっぱいにさせます。

  全編が心温まる興味深い寓話で、それが子供たちの思考力、認識力、想像力などを引き出し、簡単でわかりやすい漫画という形式をとることで、子供にも、より気軽に、楽しく、物語の中に隠された高尚な真理が理解できます。現代のさまざまな物質的情報にあふれた環境下においても、このマスター チンハイのユーモアと智慧に満ちた好書は、みなさんや子供たちの心を潤すことでしょう。

文中に紹介したすばらしい物語はマルチメディア・アニメーションとして次々と製作されており、生き生きとして活気に満ちた映像と音声が目の前に迫ってきます。どうぞインターネット上でご観賞ください。

http://www.Godsdirectcontact.org.tw/eng/illustrate/index.htm (中国語―フォルモサ)
http://www.Godsdirectcontact.net/eng/illustrate/index.htm
 (英語―アメリカ)

 


 

                  スプリームマスター チンハイ 最新DVD

                501 <中国語+英文字幕>


              素晴らしい家庭への道

                   フォルモサ・西湖共修1995.10.08

  結婚生活が幸せで円満であるかどうかは、修行に影響があるのでしょうか。どうすれば、愛と尊重を伴侶に感じ取ってもらえるのでしょうか。どのようにして結婚生活を守り、夫婦ともに真、善、美へ向かって成長すればよいのでしょうか。万一結婚生活がうまくいかない場合は、どう挽回すべきなのでしょうか。私たちは修行の力を通じて結婚生活の状況を改善できるのでしょうか。修行者が経済的に独立しなければならない要因はどこにあるのでしょうか。いかにして自分の容貌に適切に気を配り、家庭をさらに調和させるのでしょうか。このDVD、「素晴らしい家庭への道」では、軽快でユーモラスな口調で、マスターがみなさんに手早くて簡単、経済的におしゃれするこつを伝えるとともに、家庭が調和して円満になるさまざまな秘策を解説しています!


                608 <英語+25カ国語字幕>

 

               修行が進歩する方法

             アメリカ合衆国・ワシントンD.C 国際禅四1997.12.24-27

  修行がより速く進歩する方法はあるのでしょうか。このDVDの中で、マスターはみなさんにたいへん実用的な修行の秘訣を提供しているほか、いくつかの質問に焦点を絞った詳細な分析をしています。たとえば、メディテーションをしていて障害に遭った場合は、どのように解決するのでしょうか。愛情と修行には何か関係があるのでしょうか。霊修の力を、個人の利益を求めて利用しようとすると、どんな結果をもたらすのでしょうか。この世の中で、私たちは霊性が高まるにつれて、ネガティブなプレッシャーに、より耐える必要があるのでしょうか。私たちはこれらの問答を分析してゆく中で、自らの言動を一つひとつ点検して、修行をより高めることができます。




最高の芸術

        観音セレスチャル・チェア - 多機能メディテーションチェア

           マスターが心を込めた設計で、メディテーションをもっと気軽で快適に!

  多機能観音セレスチャル・メディテーションチェアは、メインの椅子と下の小さな椅子の二つからなっています。メインの椅子は精巧な肘掛けのある作りで、観音をする時に腕を肘掛けで支えられ、どのような体格の人でも快適に使用できます。下の小さな椅子も、とてもよくできています。足を乗せられるだけでなく、単独で用いて足を組んで観光することもでき、使用しない時にはメインの椅子の下に完全に収納できます!


 

   デザイナー:スプリームマスター チンハイ

    2003 ハッピーヨギ <きらきら星>

          子供服コレクション



    2003 ハッピーヨギ 夏の装い


               落ち葉がひらひら自由気ままに風に舞い
               軽やかな心は調和を喜ぶ
               すずらんが幸せを運び、花々は彩り鮮やかに咲き乱れる
               ハッピーヨギが黄金色の雨を降り注いで
               楽しい修行者に輝かしい甘露を楽しませてくれる

 

  



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