もし、みなさんがたくさんメディテーションをすれば、見るもの
     
すべてが快活に楽しく見え、精神的にリラックスします。           
〜スプリームマスター チンハイ

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マスターの言葉
是非を超越し、内面に集中して大開悟に到達する

u笑い話
  お医者さんの賢い選択/超能力のある郵便屋さんが必要/気の毒な神様の1ドル

u智慧の真珠
  手を携えて力を合わせればこの世は天国になる/しっかり修行してこそ世界を助けられる
  
/放棄と自由

u霊性と科学
  科学的観点からメディテーションを考察する

u問答精選
  霊性の成長を測る指標/内在の治癒力を発展させる/幻想を写す鏡

uマスターの講義
  リトリート中は集中し、孤立し続ける

uマスターが話す物語
  農夫と蛇

u甘露法語
  生きているうちに解脱する

u
観音WWWサイト

u私たちへの連絡法

u世界各国連絡先



ニュースマガジン  146号
2003年11月 5日 出版
1990年4月1日 創刊
発行所: The Supreme Master Ching Hai インターナショナルアソシエーション出版 会社
発行者: 謝 幸玲


スプリームマスター チンハイニュースマガジンは、中国語、英語、オウラック語(ベトナム語)、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、ポルトガル語、韓国語、タイ語、スペイン語、日本語に翻訳されています。また、インターネットでダウンロードできます。「観音wwwサイト」のページをご覧ください。



マスターの言葉

是非を超越し、内面に集中して
大開悟に到達する

スプリームマスター チンハイ 香港 1993.6.26 (中国語)ビデオテープNo.379

私たちの神性は非常に偉大で極限がないのですから、毎日それを発展させ、認識すべきで、少し開悟しただけで喜んでいてはいけません。
それだけでは絶対に足りないのです。



               神性は非常に偉大で、極限がない


  みなさんはもっとメディテーションをすべきです。メディテーションをしなければ仕事がうまくいかないばかりか、気分もよくありません。メディテーションを多くすれば何も気にしなくなり、精神もリラックスします。そうではありませんか?(答える「そうです」)

  メディテーションとは足を組んでそこに座っているだけではなく、内面に集中すべきで、非常に真剣に、しっかり内面に向かい、世間の事は放っておくのです。もし、毎日24時間いつでもそうできれば私たちの雰囲気は大変良くなり、何を見てもとてもリラックスし、それほど長い間塞ぎ込んだりしません。

  みなさんは、開悟すればそれで良いと思ってはいけません。釈迦牟尼仏のように、開悟した後も継続して毎日メディテーションをして、さらに自らを開悟させるのです。私たちの神性はそんなに小さなものではないのですから、星を一つ見ただけで喜び、月を見ただけで満足し、毎日内在の光を見て、あるいは阿弥陀仏の境界(きょうがい)や天国などを見て、それで十分だと思ってはいけません。私たちの神性は非常に偉大で極限がないのですから、毎日それを発展させ、認識すべきで、少し開悟しただけで喜んでいてはいけません。それだけでは絶対に足りないのです。


               是非を超越し、自らを舞い上がらせる



  修行不足、あるいは甚だしくはメディテーションをせずに、暮らしが快適でないと不平を抱く人がいます。快適でなければないほど、より多くメディテーションすべきです。メディテーションを通してのみ、私たちの生活はやっと少し快適になるのです。さもなければ、世界の良くない雰囲気に包まれてしまいます。こんな事でどうして快適になれるでしょうか。

  ですから、つまらないささいな事に構わないのが一番で、世の中の事は知らなければ知らないほど良いのです。あまりかかわりすぎてはいけません。私たちは超越し、上昇すべきで、それでこそ静かに修行でき、開悟でき、メディテーションに結果が出て、そうしてこそ心を奮い立たせることができるのです。一日中小さな事に構っていたらメディテーションに集中するのはとても難しくなります。そこに座ってあがき、ずっとごちゃごちゃとした雑念が浮かんで、いったいどうやって落ち着いて座れるでしょうか。

  一番良いのは、高く舞い上がって行き、世界のいかなる是非をも超越することです。ですから、私が絶えずいろいろな面で変化するのは、みなさんにこの事を学習させるためなのです。みなさんはより早く学ぶべきで、自分をそういった小さな、役に立たない、価値のない所に縛り付けるべきではありません。


                 小さな針に引っ掛けられるな


  怒りや批判の心が生じた時は必ず私たちの心は狭くなって、すべてを受け入れられなくなります。まるで、樹上の小さな針に服が引っ掛ったようで、その針を抜かなければそこを離れることはできません。たとえ、単なる小さな針にすぎないとしてもです。ですから、私たちは隣人に構わず、マスターに構わず、誰の良し悪しにも構わず、そうしてこそメディテーションに精進できるのです。もし何かのゴミが心の中にあれば、私たちは引っ掛けられ、障害になります。

  みなさんはなぜそんなに早く修行できたのでしょうか。それは私の変化がとても多いので、私を「つかむ」(笑い)のに間に合わないからです。執着したり賞賛したりするのに間に合わず、どんな姿かたちをつかむにも間に合いません。みなさんはただ私の教理に従って修行しさえすればよいのです。そうすれば、利益があり、進歩し、そして楽しく愉快で、明るくなります。私がどうあるかは私個人の事で、みなさんには関係ありません。みなさんを手伝うのはマスターのパワーであり、宇宙のパワーであって、この私ではありません。ですから、みなさんは私がどうであるか気にする必要はなく、隣人や修行仲間の是非はなおさら構うべきではありません。もちろん、その人が間違っていると感じて、もし我慢できなければ一言声をかけてもよいのですが、もし相手が聞かなければそれまでとして、そこであまり長く気にしていてはいけません。

  時には私たちは誰かに腹を立てます。するとメディテーションの時よく座れないでしょう?(答える「そうです」)相手を忘れたいと思えば思うほど、そのうんざりする顔がますます自分の前をちらちらします。(笑い) テレビを見るのと同じです。しかし、テレビならまだスイッチを切ることができますが、相手の顔はずっと私たちの智慧眼の前をちらちらと行き来して、耐えがたくさせます。

  ですから、他人の良し悪しはできる限り構うべきではないのです。大は小に変え、小は空に変えて、できるだけ他人を許し、理解してあげます。そうすればするほど良く、人に腹を立てるべきではありません。あまり長く腹を立てていると、体内に癌ができてくるからです。みなさんは「腹を立てる」ことが最も体を傷つける感情であると知っていますね。


                 怒りを溶かして自他を利する


  とても腹が立った場合は、できるだけ怒りを小さくします。怒りが小さい時は、できるだけそれを溶かしてしまい、しばらくしたら笑って忘れます。それが自分にとってより良いことなのです。私たちは自分の情緒をコントロールできます。決してコントロールできないことはありません。コントロールできれば、私たちにとって非常に、非常に良いのです。

  これを私は試したことがあります。音量の大小を調整できるように、怒りも調整できます。自分次第です。怒りを大きく調整すれば一日中気分が悪く、他の人にとっても良くありません。もし怒りを少し小さく調整すれば、しばらくするとまるで何事もなかったかのようで、自分にとっても、他のみんなにとっても良いのです。





笑い話

お医者さんの賢い投資

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ  2001.6.11.(英語)ビデオテープNo.717

  ある絵画展が開かれました。絵を出品した画家が画廊のオーナーに、誰か自分の描いた絵に興味を示した人がいないかどうか尋ねました。するとオーナーは言いました。「良い知らせと悪い知らせがあります。良い知らせというのは、あなたの絵に興味を持った紳士がいたことです。その人が、あなたの作品は他の多くの芸術家の場合と同じように、あなたが死んだらその価値が上がるかどうかと聞いて来ましてね。ですから私は、もちろんそうです、そうなるでしょうと答えました。あなたの将来性から言って、あなたの絵は必ずあなたの死後価値が上がるでしょうから。そうしたら、その人はあなたの絵を15枚そっくり買って行ったんですよ。それが良い知らせです」芸術家は聞きました「じゃあ、悪い知らせというのは?」すると画廊のオーナーは答えました。「絵を買って行った人というのは、あなたの主治医なんです」


            オリジナルビデオでマスターのユーモアをお楽しみいただけます。
                  以下のウェブサイトにアクセスしてください。


          http://www.Godsdirectcontact.org.tw/eng/news/146/jk1.htm (フォルモサ・英語)
          http://www.Godsdirectcontact.net/eng/news/146/jk1.htm
  (アメリカ・英語)

 




智慧の真珠


手を携えて力を合わせれば この世は天国になる

スプリームマスター チンハイ タイ・バンコク 1994.09.14(英語)ビデオテープNo.446

  私たちがどのくらい人の力になれるのかわかりませんが、できる事を時間と能力の許す限りするだけです。世界はこんなにも大きくて苦難が多いのですから、私たちが助けられるのはほんのわずかだとしても、何もしないよりはずっと良いのです。もし世界中の人々が、それぞれ少しずつ私たちと同じようにすれば、この世は本当に天国になり、飢餓に苦しむ人は全くいなくなるでしょう。

  ですから、全世界の人がそうするのを待つことはありません。まず自分たちから先に行いましょう。そして、もし他の人がそれに習ってくれれば、なお良いでしょう。とても簡単です。私たちの団体は大変小さいですが、もし私たちのようなごく小さな団体にそういう事ができたなら、もう少し大きな団体にも波及してゆき、ついには世界全体に広がります。そうすれば、もう全く心配ありません! 死ぬことを心配したり、天国に急いで上がったりすることもないのです。

 


しっかり修行してこそ世界を助けられる

スプリームマスター チンハイ フォルモサ・西湖1992.4.12(中国語)ビデオテープNo.241

メディテーションは、ちょうど私たちが自動車にたっぷりとガソリンを入れたり充電したりして、走り続けられるようにするのと同じです。もしくは、元気いっぱいに仕事が続けられるよう、食事をしてお腹を満たすようなものです。毎日しっかり食事をすると、健康を維持して仕事を続けられます。ですから、私たちは毎日、魂のエネルギーの補充もすべきで、そうしてこそ大事を成し得るのです。どうして大きな事を成す必要があるのでしょうか。有名になりたいから、あるいは自分はすばらしいと思うためではなく、この世があまりにも不公平だからです。大変な苦痛を味わっている人がいます。人としての価値、さらには最も基本的な尊厳さえ認められていない人もいます。人々の他人への態度はまるで野蛮な時代そのままです。だから私たちは世界を手助けするべきなのです。世界を手助けするならば、私たちはまず我が身を正し、しっかり修行して、自分に厳しくなければいけません。そうしてこそ、何をどう行うべきなのか理解できます。さもなければ、何かしたいと思っても成し遂げることはできません。

 




霊性と科学

科学的観点からメディテーションを考察する

アメリカ ニュースグループ(英語)

  観音法門の修行者にとってメディテーションは、食べたり眠ったりすることと同じくらい自然なものです。また、アジアや他の多くの西洋人ではない人々にとっても、メディテーションは霊的なことへの専心、あるいは霊性の向上といったものと結びついた、悠久の時の中で連綿と使われてきた伝統的な方法です。しかし西洋において、メディテーションは何か異国風のものとして、あるいは東洋の宗教や新時代の哲学の信奉者たちのための、せいぜい一時的に流行している活動であると長い間みなされていました。

  しかし、2003年8月4日号の「メディテーションの科学」というタイトルのタイム誌の記事によると、現在では1千万人のアメリカの成人がなんらかのメディテーションを定期的に行っていると述べており、10年前と比べて2倍にもなっているということでした。この記事は数編から構成されていて、メディテーション方法のさまざまな側面に焦点が当てられています。ある記事では西洋文化におけるメディテーションの歴史のなかで、数世紀にわたり消失していたメディテーション実習と呼ばれる方法があり、最近それが復活していると書かれています。他にも無神論者の声を代表したジャーナリストのメディテーション体験談の中では、メディテーションの明らかな価値を否定できないと書かれています。さらに、メディテーションが肉体的にも精神的にも有益であることの確証となる研究結果を記載しているものもありました。

  一方で記事の中に、メディテーションと神との密接な結びつきについての記述はありませんでしたが、メディテーションの霊的な側面に関しては、たびたび論じられていました。たとえば、西洋文化におけるメディテーションの歴史の記事では、メディテーション法に非常によく似た訓練方法が、何世紀にもわたり西洋文化のある部分を占めてきたことを認めています。また、調査研究のほとんどの報告書は、ある種の伝統的なメディテーションを行っている修行者により監修されていました。その中には、インドのヨガや日本の禅、仏教、シーク教などのメディテーションを行っている人たちが含まれています。

  メディテーションがうまくいく鍵は内在へ集中することであると述べています。メディテーション方法の初歩を教えた文面もあります。気を散らすもののない静かな場所を見つけると集中力が増すとか、目を閉じると頭脳が活発に感覚からの情報を処理することを静止するとか、心をなだめる「音」を繰り返し唱えるなどです。この場合の音とは、集中の助けとなる有意義な言葉や文章を指します。

  つまり、メディテーションは、健康や満足感、幸福感にとてもいい影響をあたえるとまとめています。ハリウッドの女優、ヒーター・グラハムは、「私はよく不安になったり、くよくよしたりしますが、メディテーションをすると至福に満ちた気分になります」と述べています。「メディテーションの科学」は、メディテーションが肉体や心、精神に利益があることを指摘し、今日のアメリカにおける霊性の面を勇気付けてくれるとともに、楽しく描写しています。

もっと知りたい方はこちらを参照
http://www.time.com/time/covers/1101030804/ 





笑い話


超能力のある郵便屋さんが必要

 スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ 2001.6.11.(英語)ビデオテープNo.717

  ある大ばか者が手紙を書いて切手を貼り、封筒の表にこう書きました。「サイゴンでエンジニアをしている、ぼくの兄さんへ」。それを見た彼の友達が言いました。「おやおや。どうして宛名をそんな風に書いたの? それじゃあ、いったい誰がどうやってきみのお兄さんを見つけられるっていうんだい!」すると、手紙を書いた男は言いました。「ばかだね。ぼくにはエンジニアをしている兄さんは一人しかいないんだよ!」

 


 

気の毒な神様の1ドル

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ 2001.6.11.(英語)ビデオテープNo.717

  ある母親が娘に2ドル渡してこう言いました。「1ドルはあなたにあげるから自由に使いなさい。もう1ドルは教会の献金箱に入れて、神様にあげるのよ」それで、その子は回り道をしながらそのお金で遊んでいると、そのうちの1ドルを川に落としてしまいました。彼女は落ちた1ドルを見つけることができず、こう言いました。「ごめんなさい、神様! あなたの1ドルがなくなっちゃったわ!」




問答精選


霊性の成長を測る指標

スプリームマスター チンハイ アメリカ・カルフォルニア・ ロングビーチ 1996.12.29.(英語)ビデオテープNo.571

Q: 私たちの生活の中で起こる良い事、悪い事、自然災害などには、何か意味があるのかお尋ねしたいのですが。このような出来事の背後に隠された意味に気づくことは良いことですか。

M: そうですね。こういう事は私たちの霊性の成長のために起こるのですが、その最中は理解できないものです。けれども、すべての事には目的があるのです。あなたがその隠れた意味に気づいたのなら、それはいいことです。気づけなくても、そのままにしておきましょう。物事は起こる時は起こります。重要なのは何が起こるかではなく、私たちがその出来事に対してどのように反応するかです。その事が起こることによって、私たちは自己反省したり、自分の進歩を映し出すことができます。それで、私たちは自分がいかに遠く、どのくらい高いレベルまで成長したかを知るのです。

  わかりやすく例をあげて説明しましょう。ある報道記者が私たちの団体について虚偽の記事を書いたとします。ある人たちは取り乱して私に言います。その人たちは記者のせいで私の名声が傷つけられたと思い、泣いたり騒ぎ立てたりします。私のために動揺しているのですが、私はそんな必要はないと言います。記者は書きたいことを書くのであり、私は私です。重要なのは、私が記者にどう反応するかであって、彼らが私のことをどう書くかではないのです。

  もし、記者が私のことについて何か良いことを書いたとしても、それを私が自慢に思ったり、興奮したり、喜んだり、得意になったりしたら、それは私にとって良くないのです。つまり、私について良いことが書いてあるから良いというのではなく、それに対する私の態度が良いか悪いかが重要なのです。彼らは関係ありません。私だけの問題なのです。彼らが私について悪いことを書いたとして、私が真剣に動揺し、ずっと腹を立てて、記者を憎んだり、仕返しをしようと思ったりするなら、それもまた私にとって良くありません。つまり、いつどんな時も平静でいられないのですから、まだまだ未熟だということです。このような事態に出くわした時、あなたがどのように感じ、どのように反応し、どのように問題を解決するか、それがレッスンなのです。その事は、私たちがどういう人間か、どのくらい偉大で寛大であるか、どのくらい愛情が深く、どれくらい理解しているかということを思い出させる道具なのです。

  時には私もしばらくは動揺します。事態はそうあるべきではなく、もっと素晴らしいはずだったという理由からです。それは、ただ私がそう期待したにすぎません。けれども、私が動揺したのは、悪い人が私について悪いことを書いたからでも、私が自分のことを良く書いてほしいと期待したからでもありません。彼らが悪いことを書くのは、私のことを知らないからです。みなさんでさえ私のことが理解できないのに、外部の人が私をどうして理解できるでしょうか。理由はとても明らかです。記者は私を理解していないのです。私は世間に出て、すべての記者たちに自分がどんなに良い人間か宣伝するつもりはありません。私が話したとしても、記者たちが信じるか信じないかは別の問題です。なぜ彼らが私のことを信じないといけないのでしょうか。

  みなさんでさえそうです。いわゆる弟子であるみなさんは自分の意志でここに来たのです。神を愛しているからこそ、謙虚になって私に質問したり、私から学んだりできるのです。それでも、みなさんでさえ時々私のことを疑うことがあるのです。私のことを悪く思ったり、私の格好や行動を誤解して私を非難し、修行を止めたりします。私の教理を見るかわりに、私の個性を見るのです。私は今あるように生まれました。神は私をこのように造りました。私は自分を偽って、私の考えではないみなさんが思っているような方法で、すべての人を喜ばせるために迎合することはできません。私は私であり、完璧です。あなたも完璧です。もういいですね。みなさんがまだ自分が完璧であることがわからなければ、理解する必要があります。

  みなさんは自分自身が完璧であることを、どのように受け入れるか学ぶ必要があります。もし、みなさんが望むなら、みなさんが完璧でないと思っていることは、どんなことでも変えることができます。私は私が完璧だと思っています。(拍手)それは私がみなさんの考えるような間違いをしないということではありません。間違っても構いません。私も自分の間違いを受け入れているのです。それに執着して、私がいつでも自分が正しいとばかり考えているのではありません。けれども、おそらくその間違いはいいことなのです。(笑い) たぶん私の間違いは誰かにとって必要で、一見、間違いのように見えますが、間違いではないのでしょう。

  例えば、ある男性が悩んで感情的に泣いていたとします。彼はハンサムで、私が彼を抱きしめたり、慰めたりすると、みなさんの考えでは、私がそんなことをすべきではないと思うでしょう。私は女性で、彼はかっこいい青年だから、私が彼を抱いたりするのは避けるべきだと思うでしょう。けれども、私はみなさんの考えなど気にしません。ですからこの状況では、みなさんは私が間違っていると思っているでしょうが、私の間違いはその男性にとって必要なのです。彼は私の間違いを必要としています。おそらく、自分の評判や、私に対するみなさんの敬意を保つためには、私はそんなことをすべきではなかったのでしょうけれど、私は気にしません。どうして私がみなさんの意見を気にしないといけないのでしょう。他人の意見がいつも正しいとは限りません。私は自分の理解に従い、その瞬間いいと思ったことをするだけです。私はいつも自分の信じていることや、その瞬間思ったことだけを表現しているのです。他のどんなものにも、私は責任を負う必要はありません。それが私のやり方です。(拍手)

  ですから、もし、すべての新聞や外部の人が私のことを悪く言ったとして、私が彼らに対して腹を立てたとしたら、私はわかっていないということです。まだまだ私はさらに一生懸命修行する必要があり、智慧を使って自分を自制したり、状況をもっとよく洞察するようにしなければなりません。それが私の仕事です。記者の仕事は彼らが書きたいことを書くことです。彼らは自分の行動に対して責任を持っていますし、私も自分の行動に対して責任を持たなければなりません。ですから、私は状況をこう見ます。彼らは私を知らないので、私を理解できないのです。それは構いません。記者は彼らの信念や理解、考えに従って書いているのです。私は全く構いません。もし彼らに説明できるならそうしますが、できなければ忘れるだけです。

  みなさんに言っておかなければなりませんが、私たちは修行者であるとはいえ、生活の中で遭遇するあらゆる事をいつもすぐに理解できるとは限りません。私たちは理解できないかもしれませんが、少なくとも修行しているので、かっとなった後、反省して、「こういう時は、どうしたらいいのか」と言うのです。

  ですから、ある瞬間に、自然な反応として怒ったり仕返しをしたいと思ったりしても、自分を責めないでください。けれども、後で冷静になってから、「こんな時はこうしてはいけなかった。どうすべきだったのだろう。こんな時は自分と相手にとってどうするのが一番良いのだろう」と反省します。そうすれば良いのです。怒ってはいけないと言っているのではなく、過度にならなければいいのです。過度にならないようにしてください。長いこと怒っているあまり消耗し、あなたの健康や精神や状況に影響しないようにしてください。怒らないようにと言っているのではありません。たまに怒るのは良いことです。健康的です。けれども、あなたが怒った時、すべきことは別のことです。怒りが自分をだめにしないようにしなければなりません。生活の中で起こるどんなことも、私たちは自分の霊性の成長を測る物差しにすることができます。みなさんにこんな見方ができれば、とても素晴らしいことです。自分にとってどのように受け止め、行動するのが一番良いかがわかるように努力しましょう。

 

内在の治癒力を発展させる

スプリームマスター チンハイ オーストラリア・シドニー 1993.3.16. (英語) ビデオテープ No. 333

Q: 私は生活をする上で、自身の霊性をもっと高めたいと感じているのですが、周囲の否定的なパワーにどのように反応したらいいでしょうか。

M:私たちが霊性を発展させると、生活の中での否定的な影響や観点などを含めたすべての事に忍耐強くなるでしょう。より寛容になり、いっそう理解が深まります。すると、私たちの肯定的な自性もまた、否定的な雰囲気をいくらか矯正するような治癒のエネルギーを発するようになるのです。

  ですから、私たちに必要な物など本当は何もないのです。私たちが修行し、霊性を本当に高めたら、状況はそれ自体ある程度改善されます。もし、誰かが私たちに助言を求めて、あるいは更正したいと願ってやって来たら、私たちはどうすべきか助言する立場になるでしょう。

 
 

幻想を写す鏡

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ 2002.5.11. (英語) No. 736

Q: 最近、私はメディテーション中、マスターに言いました。「ここでの清算が済んだら、第五界へ直行したいです。(笑い)ここには絶対に戻って来たくはありません」と。

M: そんなにたくさん要求しないでください。(笑い) まあ、そうなるでしょうけど。(Q:そのためにどんな代価を払っても構いません。) そうなるでしょう。心配しないで。 (Q:今回でもうたくさんです。) 心配しないで、あなたは変わるでしょう。

Q: では、それは可能なのですね。

M: ええ。可能です。望んだものはすべて与えられます。問題ありません。その気持ちを死ぬまでずっと持ち続けていれば、そこへ行けます。

Q: 私が生きているうちに第五界へ到達できれば、今世でもっとマスターのお手伝いをすることができるのですが。

M: ええ、確かにそうですね。(Q: もしそれが可能なら。)そういうこともありえますが、あなたができるかどうかはわかりません。あなた次第です。(Q: 何でもします。) あなたに何かをしてほしいと思っている人はいません。あなたは頭脳をコントロールする必要があります。あなたがすべきことは何もないのです。何百回死んだら仏陀になるとか、何かを捧げたら仏陀になるということはありません。そういうことではないのです。それは内在の魂の決断です。内在の魂が今世で解脱したいと望んでいるかどうかが問題なのです。

Q: 魂はこの世にやって来る前に準備すべきだったのでしょうか。魂はどのくらいのレベルを望んでいるのでしょう。

M: それは状況によります。誰もが準備したいと願っていますが、この世に降りてくると、ただ少しぐらついてしまうのです。そして、幻想の世界の王である魔があなたを待ち受けていて、「やあ。ようこそ我が家へ、坊や。お前がどんなに強いか見てやろう。ほら可愛い女の子だよ。社長の椅子だよ。大もうけできる大会社だよ」と言うのです。そうして、あなたは死ぬほど自分を酷使し、女性に仕え、疲れ果てて、マスターを見つけたいと思ってもどこにいるかわかりません。最後は、エネルギーを消耗し、病気になって死んでしまいます。そして、こう言うのです。「いいや。もう行かなきゃいけない時間だし、今度また挑戦しよう」

Q: 演出家なら「カット!」と言います。

M: そうです。「カット」。けれども、それはそれほどたいしたことではありません。いずれにせよ、あなたは神を見つける決心をしたのです。ここに降りて来る前、私たちはそうするつもりでいたのです。私たちは神でないものになって、神である自分自身を知りたいのです。自分の顔を見るのに鏡を探そうとします。鏡は幻想にすぎませんが、あなたには必要です。鏡の中に映っているのはあなた本人ではありませんが、あなたは自分を見るのに鏡が必要です。鏡をのぞいて自分自身を認識します。それ以外にどうやって自分を認識しますか。ここに立って自分自身を見るべきでしょうか、さもなければ、一体どこに立てばいいのでしょう。鏡は幻想です。鏡をのぞいているのはあなたですが、あなたではありません。そういうわけで、この世は神で満たされていますが、それは神ではありません。本当の神は内側にいて、外側の神を観察しているのです。

Q: それでは、外の世界は本当の世界を映し出した悪い映像なのですね。

M: いいえ、良い映像です。私たちはただ鏡の中を見ているために混乱しているのです。なぜなら、魔の鏡は普通の鏡とは違うからです。それは魔法の鏡です。壁の鏡です。(※注) ただの鏡ではなく、幻想を写す鏡なのです。それで、この世界は混乱しているのです。私たちは鏡で反射し合って映し出されたものすべてを見ているのです。それで、「あそこにあるのは何? 向こうにあるのは何? あれは何?」と言っているのです。

  鏡があまりに大きいので、あなたは鏡に映った自分の姿を見ることさえ忘れています。鏡はその中にすべてを映し出して、あなたは幻想の中で迷子になってしまうのです。あなたは次から次へと追い回し、「どうしよう。こっちもいいし、あっちもいい」と言って、自分の鏡の中で迷子になり、本当の自分を忘れてしまいます。あなたはおそらく、ほんの一瞬でそれが鏡であると気づくでしょう。同様に、私たちが仏性を認識するのもまた、宇宙時間ではほんの一瞬なのです。

※注 「壁の鏡よ、鏡、鏡さん」は、童話「白雪姫」のせりふです。まま母は壁の鏡に映ったものが真実だと信じています。



マスターの講義


リトリート中は集中し、世事を忘れる

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ・クリスマス国際禅五 2002.12.28(英語)


  進歩されたみなさん、おめでとうございます。みなさんは全力を尽くしました。世俗のたくさんの事を切り捨て、そして進歩したのです。まだ進歩していない人も、実は、進歩はしたのですが、その度合いが小さすぎたのです。

  速く進歩することをみなさんは常に望み、いつも私に「マスター、どうしたら速く進歩できますか?」と尋ねます。私は「すべての執着を捨てなさい、切り捨ててしまいなさい」と言います。しかし、みなさんはそうしません。ここにたくさんの友人、親戚、息子や娘たちを一緒に連れて来てしまいます。私が言っておきたいのは、みなさんは、一日中、一生涯ずっと彼らと一緒にいますが、ここでは神のためにたった5日しかないということです。それなのに神は二番目になってしまいます。それで進歩できないのです。

  唯一の秘訣は、世俗の事を切り離すことです。神はすべての面倒を見てくれます。私たち自身でできることなど、何一つありません。神の恩恵がなかったら、私たちは何もできないのです。みなさんはここに来て、私に自分たちの運命に介入してほしいと頼みます。そうしてくださいと私が神にお願いできることも、時にはあります。けれども、それは私の問題ではないのです。私は介入できるし、みなさんのために何でもできますが、それは本来みなさんの問題なのです。もしみなさんがそういう目的でここに来ているのであれば、みなさんが得るものはそれだけに留まってしまいます。おそらく息子が更正するとか、娘が幸せな結婚をする、というようなことです。みなさんが得るものは、ただそれだけです。本当の宝物をすべて置き去りにしています。それはみなさんにとって、とても惜しいことなのです。

  ですから、みなさんがどんな質問をしようと、世俗的な、あるいは取るに足らない質問をしようと、私は一向に構わないし、その質問に答えます。どんなことでも援助しますが、ただ、みなさんを気の毒に感じるだけです。ここではたった5日間しかないのに、みなさんは神を思い起こすことすらできないからです。

  一度だけでも、神のためにここに来るべきです。ただ神のためだけに。それなのに、みなさんはいつもここに来ては口実を設けて、あらゆる種類の願いを要求しようとします。そのような願い事は、すべて自分の家でできるはずです。本当は、どんな時でも神やマスターパワーに祈れば、その答えは聞こえてくるのです。私たちは耳が不自由なわけではないのですから。そんなふうに思わないでください。(拍手)

  それに、「私」が(マスターは体を指し示して)この中にいるとも思わないでほしいのです。私は具合が悪いとか、病気だとか、体が弱いとか、小さいとか大きいとか、ああだ、こうだとか、そういうことではないのです。違います。そういうのは私ではなく、この人間ではありません。私たちは、ろうあ者でも、盲目でも、愚か者でもありません。ですからみなさんはここに来て、自分の家族や友人、みなさん自身の問題や不運などについて、めそめそ泣き言を言う必要はないのです。もちろん、そうしても構わないし、みなさんが話したいことは何でも私に話せます。もし私に、母や、友人や、泣いて寄りかかれる肩になってほしいと思うなら、それもよいでしょう。けれども覚えておいてください。それは二次的なことにすぎないのです。

  そして、リトリートの時はいつでも、その時間を大事なことに活かすべきです。かき乱すものは何もなく、家族や友人からの要求もなく、商売も仕事もありません。上司も同僚も、夫も妻もいません。私たちが、みなさんのために切り離しているのです。口論もなく、子供もいません。みなさんは集中するべきです。この時間を大切にするべきです。あたかもリトリートの後、自分が死んでしまうかのように。死んでしまえば、あとに残す家族を心配する機会さえなくなるでしょう。自分が死ぬ時に、家族のことを心配するチャンスはあるでしょうか? いいえ、ありません! それに、次の日もまだ私が生きているかどうかさえわかりません。ましてやこの5日間の後、ここにまだ私がいて、次のリトリートを主催するかどうかなどわかりません。ですから、みなさんは本当に愚かなのです。

  進歩していない人は本当に愚かです。みなさんがリトリートに来る度に、いつも神だけに、一人の夫(神)、一人の妻(神)だけに集中するようにと私たちは喚起しています。そうしてこそ真の忠誠と言えるのです。忠誠とは、この地球上の配偶者に忠実であるということではありません。天国の伴侶に忠実になるべきです。これがもっとも重要です。というのは、地上の伴侶はいつでもみなさんから離れてしまう可能性があるからです。もしみなさんが醜くなったり、病気になったり、年老いたり、あるいは彼らがもっといい人に出会ったり、つまりカルマの束縛がゆるむかのように、過去世で縁があって、気が合う人に出会ったりしたら、もうおしまいです。しかし、天国の伴侶は決して、永遠に私たちから離れません。それなのに、私たちは全く忠実ではありません。これは良くないことです。とはいえ、進歩しなかった人たちは今回教訓を得られたと、私は思っています。いつでも、あるいはもしまた機会があれば、その時はチャンスを掴んでください。いいですね。(拍手)

  私はみなさんに腹を立てているわけでも、失望したわけでもありません。私にそういった感情は何もないのです。私はただ、その瞬間やるべき事をやっているだけです。ですから、ここにいる間にみなさんが有害だと思ったものは何であれ、直ちに私に返してください。みなさんは家に帰って自由になれます。みなさんは再び善良で完璧な人になります。本来の自分なのです。ここにいる時、私にはみなさんを矯正し、きれいにする義務があります。お互いにとって、その過程は時々強い痛みを伴います。しかし構いません。もう済んだことです。みなさんは自由です。この5日間の後、ここであった事は、良いことも悪いことも、すべては過ぎ去った事なのです。(拍手)

  ですからみなさんはいつも完璧で、愛され、必要とされているのです。そして、それはリトリート中も同じです。しかしある種の治療は、自分は必要とされていない、愛されていない存在である、と感じさせるかもしれません。本当はそうではなく、ただ、与えた薬がその時に必要だった、というだけです。ですから、みなさんに必要でないものは何であれ返してください。ここに戻して、自由に家に帰ってください。たとえ進歩していなくても、いつもどおりみなさんは完璧です。みなさんはまさに、自分自身で代価を支払って別の課題を学んだのです。お金の使い方に関しても、です。(笑い) みなさんはたくさんのお金を使ってここに来て、何も得ずに帰るのです。

  それは私の責任ではありません。私はあらゆる物を売っています。誰もが同じように買えます。私は、誰か特別な人のために何かを取っておいたりはしませんから、誰でも同じ商品を買うことができるのです。買いたいと思うなら、誰にでもそのチャンスがあります。

  さて、今回進歩した人は喜んでください。自分自身を誇りに思うべきです。私はごほうびをあげたり、証明書を出したりしませんが、みなさんには自分自身が報われていることがわかるでしょう。自分自身の証明があります。みなさんは幸せなはずです。(拍手) そして全く、もしくはひょっとするとほんの少ししか進歩していない人は、そうならざるを得ない理由があってのことでしょうが、その人たちに次の機会があることを願っています。そうすれば、みなさんは自分の間違いを正すことができるからです。次回機会があれば、もし再びこのようなリトリートに来るチャンスがあれば、どうぞ、死んだように一点に集中してください。もしみなさんが死んでいれば、何か手出しできる人は誰もいないのですから。玄関を出る前に、額に「死」という言葉を貼り付けてください。そしてこのリトリートから出る時には、それを取り外して「私は、また生き返った!」と言うのです。本当にこうあるべきなのです。(拍手)

  なぜならこの世界の事が頭にあったら、神とともに生きることはできないからです。聖書にも同じ事が書いてあります。「神と富を両方信仰することはできない」と。ですから、私たちは一点に集中しなければならないのです。このリトリートの間中、私が行ったことのすべては、みなさんを保護し、一点に集中させるためのものです。愛したり、かわいがったり、抱擁したり、叱ったりしますが、それはすべてわずか5日間でみなさんを助けるためなのです。ですから、私が優しくしたら、自分は特別だとか、私が叱ったら、自分はひどいなどと思わないでください。みなさんは誰もが全く平等で、私の心の中で同じように愛されているのです。(マスターは涙を浮かべて)みなさんをとても、とても愛しています。(拍手)

  たとえ、みなさんのする事が私の気に入らない場合があっても、それはその行いがみなさんの修行に良くないことだったり、みなさんの心の中に、修行のために良くない何かがあると知っているからなのです。私には、それがみなさんの責任でないことがわかっています。ただ環境がみなさんをそうさせたのです。このひどい世界が、みなさんをそのような状況に追い込んだのです。

  私はみなさんに対して愛があるだけです。厳しい言葉を与えたくはありませんが、そうしなければならないのです。みなさん自身が良くなるためです。ただ、あらゆる方法でみなさんを愛している、ということをわかってほしいのです。例えばみなさんは、時々自分の子供を叱りますが、決して彼らを愛するのをやめません。それと同じです。それに、もし子供の具合が悪ければ、入院させるかもしれません。子供にとってはひどい扱いですが、子供に良くなって欲しいからです。精神病棟に入れることもあるかもしれません。しかし、それは子供の頭をはっきりさせたいからです。このような治療があるのは、すべてそのためです。しかし治療は決して楽しくありません。ただ、もっとメディテーションをするよう努力してください。そうすればみなさんは、これ以上そのような治療を受ける必要はなくなります。

  みなさんの中の幾人かは、ここに来る前、天国でもっと悟りを開いていました。でもそれ以上に悟りを開きたかったのです。例えば、天国で80%悟りを開いていたのなら、みなさんは第四界かどこかにいたのです。それなのにみなさんは、私を捜してここに降りて来ました。私がいることを知っていたからです。そして降りて来た時、みなさんの悟りは天国にいた頃より小さくなります。そして、ここで苦しむだけ苦しみ、ここが道の途中であることや、天国でのことをすっかり忘れてしまいます。ここでより苦しんでいるのは、みなさんが忘れてしまったからなのです。

  それで私は、あらゆる手段を用いてみなさんに思い出させようとしているのです。元いた場所、そしてそこを越えて、ここに降りる前にいた所より高い境界(きょうがい)にたどり着けるように。ですから、私にできる事ならみなさんのために何でもします。でも、みなさん自身も本当の自分を思い出すよう努力しなければなりません。さもなければ、記憶が少なければ少ないほど、より苦しむことになります。とにかく、私はただ、みなさんはとても愛されていて、尊敬されているということをわかって欲しいのです。それはみなさんが素晴らしいからです。みなさんが以前悪くて、良くなったから素晴らしいと言うことではなく、状況がみなさんをとても悪くさせているのに、それでも良くなろうと努力し続けているからです。だから素晴らしいのです。(拍手)

  みなさんは、家庭や社会、友人、同僚、仕事、上司、夫や妻などから、とてもたくさんの圧力を受けています。それでも自宅でメディテーションをしたり、共修会に行ったり、ここ、リトリートにも来ようと全力を尽くしています。飛行機で来れば簡単だなどと言っても、実際はそれほど簡単なわけではありません。だからこそ、私は本当にみなさんを愛しているのです。私はみなさんが全力を尽くしているのがわかっているし、神もご存じのはずです。ですから、何を望むにしても、家で祈りさえすればいいのです。次回リトリートに来る時は、神を知ることのみを願ってください。たった5日間だけ、この世界を完全に忘れるのです。(拍手)



あとがき
講義後のおかしなエピソード


  このフロリダのリトリートで上記の講義があった共修後、炊事担当のある修行仲間がセンターのキッチンに仕事をしに戻りました。掃除のためにそこに残っていた別の修行仲間が、彼に尋ねました。「マスターの今日の講義ポイントはどんなこと?」戻って来た仲間はろくに考えもせずに答えました。「神を思い出しなさい。そうすればあなたは死にます!」

 


智慧の真珠


放棄と自由

スプリームマスター チンハイ フォルモサ・西湖 禅七(中国語)1990.09.28-10.03(MP3-9)

  私たちが高い境界(きょうがい)にいる時は、ありとあらゆるものを見通せます。何千万、何千億という、ガンジス川の砂の数ほどの世界が一瞬のうちに生まれ、また一瞬で消滅して、一切が泡のようです。何も話せないほど短い一瞬の間にも、生まれ、ほとんど同時にまたすぐ消えます。私たちは高い境界にいる時、ありとあらゆる幻影の世界を見ますが、それはこういうものです。

  生きていて苦しい時にとても長く感じるのは、まさに私たちが無明で、時間と空間の籠の中で締め付けられているために、そんなにも長く感じるのです。実際はそれほど長くありません。神と話す時でさえ、たった一秒間、一刹那もたっておらず、全く時を刻んではいません。本当にすごいスピードです。しかし、みなさんは隅の方で締め付けられていて全部見きれていないものだから、自分はただそこにいるにすぎないと思っているのです。実はそうではありません。みなさんは遍在しているのですが、締め付けられているので飛び出せないだけです。そして、自分はここにいて、こんなものだ、あんなものだと思い込んでいるのです。

  ちょうど小鳥や昆虫が時々窓にぶつかるようなものです。窓ガラスは透明で、部屋には明かりがあるので、彼らは窓の所を何もない空中であると思い、その結果自ら突っ込んで行き、頭は腫れ上がり、眼がくらみ、少しすると落ちていきます。彼らは障害物のない広々とした所へは行かずに、かえってガラスのある所へ向かって飛んで行くのです。

  私たちも同様です。どんなものもみな捨てなさい。楽しみさえ必要ありません。大した事ではありません。平安も求めないことです。健康、成功、名誉、財産、家庭、どのようなものもすべていりません。それで、何一つ痛くも痒くもありません。欲しがりすぎるから、あちこちに縛り付けられ、鼻を引っぱられるとワアワアと泣くのです。



マスターが話す物語


農夫と蛇

スプリームマスター チンハイ フォルモサ・西湖 1992.7.12 (中国語) ビデオテープNo.268


  この物語は「農夫と蛇」といいます。一人の農夫がいました。彼は毎日、自分で栽培した花と農産物を街へ売りに行き、売り切れると家に帰っていました。ある日、彼は大変朝早く出かけたので、街に着いた時、中へ入る門はまだ開いていませんでした。そこで、とりあえずその辺りに横になって寝ることにしました。目が覚めると、瓶の中の農産物はすっかりなくなっていて、かわりにたくさんの金貨があるのを見つけました。瓶の中の物が見当たらないとはいえ、その金貨はとても農産物に引き合わないくらい多かったので、思いもよらないことに彼は大喜びしました。おそらく誰かが作物を取ってお金を入れておいてくれたのだろうと思い、それを持って楽しく家路に着きました。

日を置いて農夫がまた商売をしに行く時、この前と同様早々と家を出て、再び門の辺りで眠りました。するとまた同じことが起こりました。農夫が持ってきた作物は全部なくなっていて、瓶の中には、またもやたくさんの金貨があったのです! 当時、黄金は大変高価だったので、その金貨の価値は農夫の作物よりずっと高く、何倍もありました。

  その後のある日、農夫の父親が彼に訊ねました。「最近おまえはどうして急にあんなにたくさんの金貨を手に入れたんだね? あのお金はどこから入ってきたんだい?」農夫はすぐに自分が遭遇した出来事を父親に伝えました。父親は聞き終わると、「いつか息子が家を出る時について行って、一体誰が作物を食べて、金を瓶の中に入れていくのか見てやらなくては」と思いました。

  そしてある日、農夫が商売に行く時、父親はこっそり彼について行きました。農夫が街の門の近くで寝入った頃、父親は、一匹の蛇が息子の瓶の所に這ってきて作物を食べ始め、終わると一かたまりの金貨を瓶に吐き出すのを見ました。それは支払いをしているようでもありました。それから蛇は行ってしまいました。父親は、「もしあの蛇を殺したら、やつの金貨を全部手に入れられるわい!」こう思い、さっそく石を一つ捜し出して、蛇を真っ二つに叩き割りました。

  その時、蛇の頭と胴体はもう巣穴の中に入ってしまっていて、尻尾だけが外に残っていました。父親は、蛇が巣穴にたくさんの宝物を持っているだろうと思ったので、手を伸ばしてつかみ取るよう息子に言いました。そこで農夫が手を伸ばすと、思いがけず、蛇に咬み殺されてしまいました! なんという事でしょう。蛇は真っ二つに断ち切られたにもかかわらず、人を咬むことができたのです! こういう状態を私も知っています。私も小さい時に同じように咬まれたことがあるのです。その時は、一匹のムカデが誰かにぺしゃんこにつぶされていて、頭だけがつぶれていなかったので、もう死んでいるのだと思いました。それで、本当に死んでいるかどうかを確かめるために、足先でムカデを動かそうとしたのです。その結果一口ガブリとやられ、三日間わんわん泣きました。(笑い)大バカ者です! みなさんも覚えておかないといけませんよ。ムカデを見かけても、いたずらしてはいけません。たとえ、もう死んでいるように見えても、やはり触らずにいるべきです。なぜなら、ただ死んだふりをしているだけで、本当に死んではいない場合もあるからです。

  物語の中の蛇もほとんど同じような状況です。頭は死んでいなかったので農夫を一咬みして、その結果、彼はすぐに命を落としました。農夫の父親は、そこにある息子の亡骸を見てとても悲しみ、声を上げて泣きました。それから蛇に問いかけました。「蛇や、おまえはなぜ息子を殺したんじゃ? どうして息子を咬み殺す必要があったんじゃ?」蛇はすぐ聞き返しました。「それなら、あなたはどうして私の背中を石で断ち切ったのですか? 私たちの間には何の恨みもなかったし、これまで、私はあなたに何の悪さも、傷つけたこともなかったのですよ。もし、あなたがもう少し辛抱強ければ、少しずつ私の中にある宝物を、みなあなたにあげたのに。ところが、あなたは私を打ちました。ですから私はあなたの子供を咬み殺したのです。もし、あなたを咬み殺したとしてもあなたは何も悲しまないので、あなたの子供を咬み殺して、生涯にわたり苦痛を味わわせることにしたのです」蛇の智慧は本当に残忍です! 自分を殺そうとした人間を咬まずに、その息子を咬んで、彼を一生苦しませたのです。なんてひどいのでしょう!

  この物語には、私たちにも学び取れるものがあります。みなさんは私にこう聞くことがあります。「どうして私をすぐに第五界に連れて行ってくれないのですか? 私はもう解脱できます。すぐに聖人になれます。その方がいいのではないですか? どうして、毎日2時間半メディテーションをするようにとか、また五戒を守るように、菜食するように、と私に言うのですか? こんな事は、もどかしくて、遅すぎます!」実際は、遅いことなどないのです! このようにしてこそ、みなさんは消化できるのです! もし、一度にたくさんあげすぎれば、お腹がはち切れてしまいます! 欲張りすぎると、かえって最後には何も得られないのです。

  私たち修行者には全く障害がない場合があります。自分がなぜこの修行の道にいるかということを十分に理解していて、毎日一生懸命メディテーションをします。疑いの心を持たず、自分で障害を作らず、修行にとても精進できるのです。しかし、魔は私たちを「咬む」ことができなくても、すぐに私たちの身内の厄介事を探し出して利用するのです。そして今度は身内が私たちを「咬み」にやってきて、傷つけます。釈迦牟尼仏も述べたことがあります。魔は仏を攻撃できない時、弟子を攻撃します。ですから弟子がたくさんの問題を抱える場合がありますが、その時はマスターにもその累が及び、影響を受けます。というのは、マスターは弟子を見殺しにしたり手をこまねいているわけにはいかないからです。ちょうど、子供が事故にあった親は、ただそばで立って見ていられないのと同じです。ですから、必ず影響があるのです。

  みなさんが修行していると、身内や友達との間に摩擦が起きるのを避けがたい時があります。このような事は誰にも経験があります。みなさんは状況を見ながら、できるだけ我慢したり、説明したり、見過ごしたり、放っておいたり、冷たくしたり、あるいは親切にしたり、という具合に事に対処すべきです。一人ひとりみな状況が違うので、私にも、はっきりとしてわかりやすい、これだという手本をみなさんに示すことはできません。みなさんは智慧を使って事を処理し、できる限り円満にまとめるべきです。しかし、だからといってそのために必要以上に自分をすり減らして、自らの修行を犠牲にしてはいけません。



甘露法語

生きているうちに解脱する

スプリームマスター チンハイ アメリカ・テキサス州・ヒューストン 1993.11.13.(英語)ビデオテープ.394

 この人生や私たちの霊修行の原則の中で最も重要なことは、他の人々を愛し、自分自身を愛し、あらゆる憎しみや偏見、批判的な態度や否定的な考え方から解放されることです。そして、いったんこの現世で解放されれば、私たちは確実により高い境涯に行くでしょう。なぜなら、それらは私たちをこの物質世界、三界内に縛りつける否定的な事柄、重荷だからです。そのような重荷が何もなければ、私たちは生きているうちに解脱できます。それが最も重要なことで、光を見たり音を聞いたりすることではありません。光や音は単に私たちを修養する食物にすぎないのです。




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