To know God is to know ourselves completely, and when we know ourselves completely we know God.

~Supreme Master Ching Hai


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マスターの笑い話
  分割払いで罪を償う | 誰が払ったの? | 傘を取り戻す方法

マスターの言葉
  神を知るということは自分自身を知るということである  

マスターの講義
  マスターと弟子の神聖な関係

マスターが話す物語
  智慧を使って手放す時を知る 

永遠なる一瞥
  
フレデリック・ショパン 内在の世界に目覚めた作曲家

甘露法語

不思議な体験
  
二つの虹が、多文化のリトリートを加護する | 言葉を超えた至福の悟り
 
| 神の体験を通じてマスターパワーを再確認する | マスターの恩恵で救われた私たちのリトル・ローズ

問答精選
  
霊性と世俗のバランスのとれた生活を送る | 三種類の霊性の師 | 在世のマスターは常に私たちと共にいる

魂の高揚
  スプリームマスター チンハイ 最新DVD


観音wwwサイト

私たちへの連絡法

世界各国連絡先

ニュースマガジン  149号
2003年3月15日 出版
1990年4月1日 創刊
発行所: The Supreme Master Ching Hai インターナショナルアソシエーション出版 会社
発行者: 謝 幸玲


スプリームマスター チンハイニュースマガジンは、中国語、英語、オウラック語(ベトナム語)、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、ポルトガル語、韓国語、タイ語、スペイン語、日本語に翻訳されています。また、インターネットでダウンロードできます。「観音wwwサイト」のページをご覧ください。 

笑い話

分割払いで罪を償う

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ 2002.5.13 (英語)

  税務署宛に、以下のような手紙を書いた人がいました。「私は所得税をごまかしてからというもの、夜もろくろく寝られません。私には自分の課税額がわかっています。そこで、まず150ドルの小切手を同封します。もし、それでも不眠症に悩まされるようなら、さらに追加分をお送りします」

誰が払ったの?  

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ 2002.5.13 (英語) ビデオテープ No.747

  母親が新しい毛皮のコートを着てみて、鏡をのぞき込んで眺め回していました。その様子に閉口したベジタリアンの娘がこう言いました。「おかあさん、こういうコートが着られるのは、気の毒な物も言えない動物が苦しんだおかげだっていうことがわかってるの?」すると母親は怒りの眼差しで娘に言い返しました。「よくもお父さんのことをそんなふうに言えるわね」

傘を取り戻す方法

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ 2001.12.28 (英語) ビデオテープ No.735

  ホテルをチェックアウトした男性が、外に出てから傘を忘れてきたことに気がつき、取りに戻りました。しかしホテルに戻ると、彼がいた部屋にはすでにハネムーン中の夫婦が入っていました。彼が部屋の前まで来た時、男性が尋ねているのが聞こえました。「この手は誰のもの?」女性が答えました「あなたのものよ」「この口は誰のもの?」と尋ねると、「あなたのものよ」と女性。「この鼻は?」「あなたのものよ」そこで外にいた男性はこう言いました。「恐れ入りますが、そこにある傘でしたら、私のものです」

Please visit the following websites to enjoy the original video versions of these jokes, and you may share the joy of Master's humor with those around you:
http://www.godsdirectcontact.org.tw/eng/news/149/jk1.htm
  (Formosa)
http://www.godsdirectcontact.net/eng/news/149/jk1.htm
  (USA) 


マスターの言葉

神を知るということは自分自身を完全に知るということである 

スプリームマスター チンハイ ポルトガル・リスボン 1999.5.7.(英語)ビデオテープNo.645

  一般的に言えば、どんなマスターの弟子も幸福と幸運を享受し、人生におけるどんな願いも――肉体的、精神的、感情的、そしてもちろん霊的な面においても――常に実現します。そして弟子たちはその肉体を去る時、直接天国へ向かいます。それについては疑いの余地はありません。

  ですから、この現実の生活でも幸せであるよう――天国は言うまでもなく――ここで幸せでいられるよう、楽しい生活を送れるよう、そしてより知的な人であるよう私たちはメディテーションをすべきです。私たちはすでに非常に知的ですが、頭脳のパワーを十分には使っていません。私たちはたった5~10%使っているだけですでにとても賢く、多くのものを発明しているのです。みなさんがメディテーションをしてもっと頭脳の力を使えば、もちろんもっと知的になります。
普通の人は、わずか10%までしか頭脳の力を使っていません。それは周知の事実です。科学的にも証明されています。それでは残りの80%、あるいは90%はどうしたのでしょうか。無駄にしてしまっています。そういうわけで私たちは完全な衆生ではないのです。私たちは達成感を感じません。自分の完全なる力を使っていないために挫折感を覚えたり、弱さを感じたりするのです。

  ですからメディテーションは、他の言葉に言い換えるならば、私たちの完全なる力を利用することなのです。それこそがメディテーションの目的、あるいはメディテーションの意味するものです。それで私たちは神のように全能に、あるいは少なくとも神の子供のようになれるのです。そうでなければ、ときに私たちは小さな問題や小さな事柄に対処するための十分なエネルギーさえも持てず、自ら満足のいくように物事をいつも完全には行えません。力と智慧が欠けているからです。

  ですから神を知ることは、自分自身を完全に知ることなのです。自分を完全に理解した時、私たちは神を知るのです。その時私たちは神と一体になり、神が創られた通りに神とそっくりになります。神は人を自らに似せて創られたのですから

最高の崇拝の方法とは自らマスターになることである

  ほとんどのマスターは非常に謙虚です。彼らはどんな物質的、あるいは精神的崇拝をも望んではいません。ただ、みなさんもマスターにしたいと願っているのです。彼らはみなさんに、自分が神の子供であること、自分は偉大であることに気づいて欲しいと願っているだけです。彼らはみなさんを本来のように、偉大にさせたいと願っています。決してマスターが他の誰よりも優れているのだとは思っていないからです。彼らはすべての人はみな等しいことがわかっています。――この世界でも天国でも、あらゆる意味において等しいのです。

  しかし、人間というのは、もし誰かが他の人々に、地上の楽園のような至福のすばらしい何かを教えたとしたら、もちろん大多数がその人物を崇拝するでしょう。もしマスターを崇拝する必要があると感じるなら、そうしてもよいのですが、最高の崇拝の形は自分自身がマスターになることです。つまり、自分の人生のマスター、自分の智慧のマスター、自分の運命の、そして誠心誠意さのマスターであり、あらゆる点において自分に忠実であることです。私たちは自分自身を完全に知る時、つまり真の自分は誰なのかを理解できる時にのみ、それができます。そしてその時、私たちは誠実に、そして巧みに人生を送ることができるのです。

聖人になり神をたたえる

  私たちは神を知るためにこの世界を放棄する必要はありません。いいえ、そんな必要はないのです。 神は私たちが享受できるようにすべてのものを創られました。神が美しい女性をみなさんの妻とすることで、みなさんは彼女を愛することができるのです。神がみなさんに美しくかわいらしい子供を授けることで、みなさんはどのように彼らを愛するか、どのように彼らを守り、彼らのために犠牲になるかを知り、こうして無条件の愛とは何かを知るのです。

  これらすべてのものをみなさんが手に入れることを神は望んでいるのです。しかし、もし私たちがこの世俗的なことだけを手に入れて神を知らないのなら、半分だけしか知らないことになります。半分も知らないでしょう。私たちはほんのわずかしか手にしません。なぜなら、いずれはそのすべてを失うことになるのですから。しかしいったん神を手に入れれば、すべてを得ます。まず神の王国を探しなさい。そうすれば他のすべてのものがみなさんにもたらされるでしょう。それは私たちがかつて生まれる前に神が約束されたことなのですが、私たちは忘れています。そしてそれは私たちにとってもったいないことです。自分の権利を取り戻し、栄光を回復させ、自分が本来有するすべてを取り戻すべきです。私たちは全宇宙を所有しているのですから。

  聖人でありなさい。そして同時にこの世界を楽しみなさい。豊かで美しい聖人でありなさい。私はほんの少しだけ悟りを開いていた時に、多くの古代の聖人の足跡をたどり、すべてを放棄しました。私は何も気にかけませんでした。何も望むものはありませんでした。もはや私の心に訴えかけるものは何もなかったのです。しかし神はおっしゃいました。「おまえはあらゆるものを手にしなければならない。私はすべてを、おまえがかつて望んだり、必要としたりした以上のものを与えるつもりである。おまえは私が父なる神であること、そして私はおまえに霊的気づきだけでなく、何でも、あらゆるものを与えることができるということを世界に示す必要がある。おまえは私を愛するために何も放棄する必要はない。おまえがどうあろうと、私はおまえを愛しているのだから」と。

  神は私がこれを行う必要があると、輝かしい方法で行う必要があるとおっしゃいました。それで私は言いました。「わかりました、父なる神よ。あなたのおっしゃることならなんなりと」。実のところ、私はもっとシンプルな生活を送りたいのです。あまり手間がかかりませんから。しかし神はこうあることを好まれたのです。構いません! それにみなさんは私が美しいほうが好きですね。違いますか? より目を楽しませてくれますから。

  それで私は神に言いました。「でも、お父様。仏陀やイエスなど古代の聖人たちは、はだしで歩きました。彼らは粗末な服を着て、食べ物を乞いに出かけました。なぜあなたは私にこれらすべてのものをお与えになろうとするのですか。それが一体なんの役に立つのでしょうか」と。なぜならこの世のほとんどの人たちは、聖人とはすべてを放棄し、何も持たず、貧しい外見で、はだしで歩いているべきだと期待し、慣れているからです。

  すると神はこうおっしゃいました。「いいや、時代が違うのだ。現代的になるのだ! 時代に歩調を合わせ、自分を最新の状態にする必要がある」
 それで私は今まで気にしたこともないような、これらすべてのものを手にしているのです。もしみなさんが通りで私を見かけたら、きっと非常に質素に見えるでしょう。しかし私にはトランシーバー、電話、ファックス、E―メールといったあらゆる種類の「修行装備」があります。私には使うべきたくさんの、修行の武器があるのです。片手に電話、もう一方の手にはファックスやE―メールといった具合です。さもなければ、私は神が望む方法でこの仕事をすることができないのです。


マスターの講義

マスターと弟子の神聖な関係

スプリームマスター チンハイ フォルモサ・台北 1986.7.8 (中国語) CD-CE05

  印心の時、私はみなさんに「おめでとう! 今日からみなさんは完全に自由です。
自由の人になりました。解脱しました」と言います。
しかし、おそらく半数の人しか信じないでしょう。構いません。
解脱は解脱ですから、信じても信じなくとも影響はありません。
しかし、みなさんはやはり私について歩かなければなりません。
しばらく歩くと、より早く理解できるようになります。
メディテーションが多ければ多いほど、より早くわかります。


  そう遠い昔のことではありませんが、インドに開悟したマスターがいました。ある日、彼は用があって外出し、4、5人の弟子が一緒に出掛けました。道中の半ばまで来た時、一人の弟子が猛毒のある蛇に咬まれました。その蛇はインドでは最も有名な毒蛇で、一度咬まれたらもうおしまいです。その弟子は咬まれると顔色がすぐに紫や青などいろいろに変わったので、彼はすぐ死んでしまうに違いないとみなが思いました。いったんこの種の蛇に咬まれると、5分か10分ですぐに死んでしまい、助けることのできる薬はないからです。

  傷を負った弟子は他の弟子たちに言いました。「マスターに言わないでください。みなさんはマスターと先に行き、私をここに残してください。もうしばらくすれば私は往生して解脱しますから大丈夫です」。他の弟子たちはどうすればよいかわかりません。しかし、マスターはそれに気づいて彼を見に戻って来て、たいへん心配しました。その弟子は「マスター、心配ありません。私はすぐに解脱しますから大丈夫です」と言いました。するとマスターは他の弟子たちに言いました。「ある種の木の葉を擦り付けるとすぐに治ると聞いたことがある」。

  弟子たちがその木の葉を持って来て言われたようにすると、思ったとおり、傷を負った弟子は良くなりました。病を治したのはこの木の葉ではなく、マスターのパワーであることを弟子たちはみな知っていました。元々もう絶望していたのに、いったいどうして木の葉を擦りつけただけで治ったりするものでしょうか。その弟子は感動してひざまづき、マスターに感謝して言いました。「私はほんのちっぽけな、重要でもない弟子なのに、なぜこんなにも慈悲深く、私のカルマを背負われるのですか。どうしてこのようになさったのですか」しかし、マスターはただ「いや、私は何もしていないよ。さあ、歩き続けましょう」と言いました。これこそがマスターと弟子の関係です。

在世の開悟したマスターとの貴重な縁を大切にする

  偉大なマスターというのは仏菩薩の化身であり、みなとても慈悲深いのです。しかし、彼らのこの世界におけるパワーには限りがありますし、自分の身分や、何ができるかについて明かすことはできないのです。ですから、ほんのわずかの人しか気づかず、弟子であっても、その多くが知りません。例えば、このマスターは弟子を救った後、すぐに彼ら5人に「この事を人に言ってはいけません。すぐに忘れなければなりません」と言いました。後日ある弟子が本を書き、この事を記したので、他の人もようやく知ることになったのです。この時、そのマスターはすでに他界していました。

  世の中の人はこのように、大師が私たちを教えに来ても何者なのか知らなかったり、たとえ彼について学ぶ人がいてもいい加減だったりして、マスターがどんな人なのかわかりません。大師は去った後にようやく有名になり、世界中が彼らを尊敬するようになります。みなはやっとイエス・キリスト、菩提達磨、釈迦、老子、荘子などを知りますが、何にもなりません。大師たちが去ってしまった後で、私たちはようやく彼らが誰なのか気づきますが、生きている時にはわからないのですから、残念なことです。世の中の人々はこんなふうなのです。

  ですから、大勢の人がマスターにつき従って学びますが、長い時間学んでも、まだ自分のマスターが何者なのかわからないのです。メディテーションしなければならないと耳にすると、すぐに「ああ、メディテーションは辛すぎる!」と言い、マスターに会いに行くべきだと聞くと、「おや、彼(彼女)に会いに行って何の役に立つのか」と言います。マスターの講義を聴きに行きたいと聞くと、彼は「まあ、他のマスターの講義を聴きに行っても同じでしょう(笑い)」と言います。

  しかし、大師がこの世界を離れた後、突然誰もがみな彼のことを知ります。彼がどれほど偉大で、生前どんなに多くのことをしたかを知るのです。大師たちはそれを話さないので、多くのことを弟子でさえもみな知らないからです。私たちには、時には困難があってマスターに助けを求めます。マスターに助けられて私たちが感謝すると、「何でもありません。私は何もしていません(笑い)」と言い、さらに「あなたはでたらめを言っている、迷信だ」(笑い)と叱りつけるかもしれません。彼らは元々自分を宣伝しないのです。もしだれかマスターが、何かの超能力がある、何かのパワーがあると自ら宣伝したのなら、そのマスターは本物の明師ではありません。

明師に従って修行することは、最大の恩恵

  偉大なマスターたちは多くの方法で弟子を加護することができます。ちょっと見ただけでもう加護する人もいますし、頭にふれて加護する人たちもいます。そして、他の秘密の方法で加護する人もいます。多くの弟子は自分のマスターが彼らをどう手助けし、彼らのために何をしたのかを知りません。弟子が知っているかどうかにかかわらず、このようなマスターに出会うことができれば、これこそ最も恩恵があり、最も安全です。こういうマスターに頭を少しでもさわってもらうことができれば、多くのカルマが消えてしまうのです。

  インドでは、人々は在世の明師を釈迦や神よりも尊敬します。彼らは「神はとても崇高だけれども私には見えません。私にとっては自分のマスターこそが最高なのです。私には、仏菩薩は見えないけれど自分のマスターは見ることができます。仏菩薩が何をしているかわからなくても、自分のマスターが助けてくれていることはみなわかるのです」と言います。本来、大師たちも神から来たのであり、仏菩薩の化身ですが、彼らはそのことを話しません。たとえ話したとしても、人々は信じません。

  数百年前、インドに一人のとても偉大な明師がいました。ある日、一人の女性の弟子がメディテーションの時に第五界まで行き、自分のマスターが第五界のブッダであるのを見ました。この弟子は戻って来るとすぐに、慌ただしくマスターを探しに行き、言いました。「マスター、あなたはどうして嘘を言ったのですか。あなたはずっと私たちを騙してきました。あなたは、自分はただの凡夫で、何の神通力もなく、何もできないと言いました。しかし、私は今日、あなたこそ神であるのを見ました。あなたは第五界のブッダで、あなたは最高で、あなたより崇高な人は他にいません。どうして私たちをずっと騙し、ご自分の身分を話してくださらなかったのですか」マスターは「もし私が話したとしても、あなたは信じません。ですから私は話さないのです」と言いました。

  こういうマスターに出会えたら、それは最高の恩恵です。しかし、彼らはこの世界で多くを話すことはできません。それに、話したがりもしませんし、話したところで何の役に立つでしょうか。

ツァーリ(帝政時代のロシア皇帝)と追放された民

昔むかし、あるツァーリ(帝政ロシアの皇帝の称号)が労働者に扮してスペインに造船技術を学びに行き、その間に数人の同胞に出会いました。彼らはロシアで悪事を働いて追放され、二度とロシアに住むことを許されなかったため、スペインに来て働いていたのでした。彼らの生活はとても辛く哀れな状況で、故国や身内が恋しくても帰らせないというツァーリの指示のために帰国できなかったのです。

  このロシアのツァーリは日々彼らと共に仕事をして、その望郷の念を知って感動したので、彼らに「私はロシアのツァーリの友人で、彼を知っています。もしあなた方が家に帰りたければ、私と一緒に行きましょう。私はツァーリに、あなた方の罪の許しを請い、家に帰してあげることができます」と言いました。彼を信じてついて行った人もいましたが、信じない人もいました。彼は見たところ普通の労働者と同じ様子で、ツァーリに何か話せるほどの大きな力があるとは信じられなかったので、幾人かは、ついて行こうとは思わなかったのです。

  彼について行った人たちはロシアに戻った時、大勢の人が彼を出迎えに来たのを見ました。どの町へ行っても、いつもとても大勢が彼を歓迎しました。労働者たちは「この人は恐らくたいへん力のある人で、影響力の大きな高官か、地位の高い人か、あるいは有名人なのだろう」と思いました。彼らが宮殿に近づくにつれ、歓迎する人はますます多くなり、祝賀の宴会もますます盛大になってきました。そこで彼らはまた「ああ、彼はきっと最高の高官か、ツァーリの親族に違いない。以前彼が話したことは、きっとみな本当だ」と思いました。最後に宮殿に着いて、彼がツァーリの御座に座るのを見て、彼らはようやく彼こそがツァーリであると知ったのでした。その時、彼らの罪はすべて許されました。ツァーリは最高の権力を有しているので、以前は彼らを追い出し、今は連れ戻すことができるのです。

  私たち印心した人も同じです。私たちは本来最高のパワーから降りて来て、今、この最高のパワーが私たちを連れ戻しに来たのです。とても簡単なことです。このツァーリと同じです。彼は人を追い払った後で、やはりまた彼らを連れ戻すことができます。なぜなら、彼の権力は最高で、何か言うことのできる人などいないからです。

印心した人はすぐに性見成仏する

  インドにはたくさんの経典の記載があります。もし最高のパワーを有するマスターに出会ったなら、全く何もする必要もありません。礼拝する必要も、ひれ伏す必要も、懺悔する必要も、功徳を積む必要も、何も必要ありませんが、それでもどんな面においてもとてもよくなり、首尾よくいくでしょう。なぜなら、この最高のパワーは本来私たち自身であり、私たちはそこから来ていて、私たちはそこへ今帰り着いたからです。だからこそ、「性見成仏」(本性を見てブッダになる)と言うのです。「性」とは私たちの本性のことで、個性ではありません。古代の禅師が言っている「頓悟」とはこの意味--すぐに本性が見え、聖人になるということです。多くの人は、まだ自分が聖人であることを信じないかもしれませんが、構いません。たとえこんなふうであっても、私たちはやはり聖人であり、やはり自由自在で解脱し、その時が来たら自然にわかるのです。

  先ほど私が話した物語と同様、ツァーリをなんとか信じた労働者は彼について行き、宮殿に着いてみて真相がわかりました。彼らは元々すでに自由になっていたのです。なぜならツァーリがすでに、帰れると彼らに言ったからです。まだスペインにいた時、ツァーリは「あなた方は帰ることができます」と言いました。その時彼らはすでに自由になっていたのであって、宮殿に戻ってようやく自由になれるというわけではないのです。しかし構いません。彼らはまだ半信半疑でしたが、ツァーリについて行っただけで、時間が来て家に戻った時にはすべてわかったのです。

  まるで印心の時のようです。私はみなさんに「おめでとう! 今日からみなさんは完全に自由です。自由の人になりました。解脱しました」と言います。しかし、おそらく半数の人しか信じないでしょう。構いません。解脱は解脱ですから、信じても信じなくとも影響はありません。しかし、みなさんはやはり私について歩かなければなりません。しばらく歩くと、より早く理解できるようになります。メディテーションが多ければ多いほど、より早くわかります。もしメディテーションをしないと、後で理解できますが、生活は何の意味もなく、いいかげんで、自ら面倒をもたらし、たくさんの病に苦しみ、カルマがとても多く、開悟していない生活を送ります。

  私たち凡夫は仏菩薩を理解していないので、たとえ目があっても盲目の人と同様に見えません。仏菩薩が私たちの替わりに何をし、どう手伝ってくれたのか何も知りません。それどころか、毎日木の仏像に恩恵を求めて礼拝に行き、さらに無事や加護のパワーを求めて、神や霊を拝みに行きます。自分は裕福でありながら、外へ托鉢に行くのです。


マスターが話す物語

智慧を使って手放す時を知る

スプリームマスター チンハイ アメリカ・フロリダ 1998.10.4-5 (英語) ビデオテープNo.638

  昔、インドへ行った一人のマスターがいました。その頃は現在のような伝達手段も、飛行機も、たくさんの交通機関もありません。それで、そのマスターは歩いて行きました。彼はインドにはそれまで一度も行ったことがありませんでした。たぶんペルシャ人だったのでしょう。インドにやって来て彼はたくさんの果物を見ました。インドでは水が不足しているためにあまり果物を育てられないので、たくさん売られてはいても、そのほとんどが高価です。さて、彼は一つのカゴを見つけました。真っ赤で細長い実が入った大きなカゴです。それが店で一番安くて、ちっとも高くありませんでした。

  そこで彼は近づいて尋ねました。 「1キロ いくらですか」「2ルピーです」と店主が答えました。インドの2ルピーはただも同然で、塵のようなものです。それで彼は1キロ買い、それを食べ始めました。ところが食べはじめたら、ああ、どうしたことでしょう。目からは涙がこぼれ、口からはよだれが垂れ、焼けるほどヒリヒリし、目も頭も火を吹きそうです。顔が真っ赤になってしまいました。彼は咳込み、むせて、やっとの思いで息をし、そして、ピョンピョン飛び跳ねて、「オー! オー! オー!」と叫びました。

  それでも彼は食べ続けました。すると、それを見ていた人たちが首を横に振って言いました。「頭がおかしいんじゃないですか、それは唐辛子ですよ! そんなに食べるもんじゃありません。体に良くないですよ。それは薬味として、味付け用にほんの少し料理に入れるものです。そんなふうにいっぱい食べる物じゃありません。果物じゃないんだから!」すると、その愚かなマスターは言いました。「いいえ、止められません。私はこれにお金を払ったのだから、今すぐに食べてしまうんです。私のお金なんですから」

  みなさんは、そのマスターを愚かだと思いませんか? これと同じように、時々私たちもそういうことをします。私たちはお金や時間や労力を、人間関係や商売や仕事に注ぎ込みます。そしてかなりたってからですが、苦い経験によってそれがうまくいかないであろうことに気づき、今後事態が好転する望みがないことがわかります。――すでに直感で、はっきりとわかるのです――それでも自分の時間やお金、愛情や労力を注ぎ込んでしまったという理由だけで続けるのです。そして、唐辛子を食べた人のように、頭がおかしくなってしまうのです。彼はとても苦しいのに、止められませんでした。支払ったお金を無駄にしたくなかったからです。

  ですから、もしみなさんが何かを失っても、それは放っておいて進まなければなりません。失い続けるよりは良いのです。このことをみなさんは覚えておかなければいけません。「マスターが、私たちは寛容で、無条件の愛を持った存在でなければならないと言っている」と、夫の意のままにお尻を蹴らせたり、妻に虐待を続けさせたりしないでください。それは良くないことです。何度も言いましたが、私はそのような事はすすめていません。

  もう一つ、ヘビとお坊さんの話があります。そのマスターはヘビに狂暴にならないようにと教えました。するとヘビは、みなにいじめられるがままにしていました。石を投げられたり、振り回されたりしたのです。するとマスターが言いました。「咬まないようにとは教えたが、シューッという音をたててはいけないとは言っていないよ」。つまり、人を威嚇して遠ざければよいという意味です。そのようなことは、私たちもすべきです。私たちは可能な限りの手段で、自衛しなければならないのです。


永遠なる一瞥

フレデリック・ショパン    -- 内在の世界に目覚めた作曲家

リチャード・スチュワート(男性同修)アメリカ・カリフォルニア・ロサンゼルス(英語)

「ずっと以前に、私は自分の創作分野を


人の心と魂にすることに決めた」


---フレデリック・ショパン
                           

はじめに

  世界的に有名な19世紀の作曲家、フレデリック・ショパン(1810-1849)は、音楽史上最も独創性豊かな人物の一人です。彼の作曲スタイルは、他の作曲家の作品からはほとんど影響を受けていません。実際、ポロネーズやバラードなど、多くの彼の作品すべてが新しいジャンルを定義付けているのです。まさに現代のある評論家が「彼の楽曲の構造や形式は非常に独特である。彼の音楽に対するバランス感覚や構成感覚は、『知られざる源泉』から湧き出て来たかのようだ」と述べているとおりです。このことから、ショパンのインスピレーションは悟りによって通じた、その「知られざる源泉」である天国から直接もたらされたもので、先人や同時代の作曲家の作品を例としたものではないようです。この見方は彼の友人であるハンガリーの作曲家、フランツ・リストによって裏付けられています。
:

    この曲を世界のために作らん!

    神はそれを認め、後に与え賜う

    その価値あるものに、更なる価値を添えるため

    新しい創造の花

    それは昔日の旧作をめぐり

    そして妙なる旋律で彼の美を語る
.

                    - リスト著「ショパンの人生」序文より

 

人   生

  Cショパンは、父がフランス人、母はポーランド貴族の出身というワルシャワの裕福な家庭に生まれ、幼少期よりピアノ音楽を好んで6歳からピアノのレッスンを始めました。自分のインスピレーションをどう書き留めればよいのかを知る以前に、すでに彼は作曲を始めました。やがてその音楽的才能は明らかになり、天才モーツァルトの子供時代と比較されるようになりました。ショパンの作品が最初に出版されたのは彼が15歳の時で、17歳になるまでにワルシャワの一流ピアニスト、そして才能ある作曲家として認められました。

  しかし、当時ポーランドは政治の動乱期であったため、20歳の時に彼はロマン主義運動の中心であったパリへ移り、たまの外国旅行を除いては残りの人生をフランスで過ごしました。生来内向的なショパンは公開コンサートを開くことを避け、その代わりに友人のために演奏しました。そしてピアノの教師をしたり自分の作品を売ったりして生計を立てました。


 

    「もし、素晴らしくも捉えどころのないこの特性が人類のものではなく

    神のものだとすれば、これは私たちへのショパンからの最高の贈り物

    である。要するに、ショパンはどの作曲家よりも内なる世界の音と体験

    の本質に、より近づいた表現をしているのである」

                                
                                    ---現代の評論家

創   作

  ショパンは、他の作曲家たちが思いつかなかった、楽器に「歌わせる」というやり方でもっぱらピアノのための作品を書きました。そして「ピアノの詩人」という名声を博したのです。彼の叙情的感覚と旋律に対する天性の才能は、これまで書かれた中で最も美しい音楽を生み出し、彼のピアノ曲は歴史上最もよく演奏されています。彼は世界でも稀に見る巨匠の一人であり、その人気は決して衰えることがなく、彼が書いたほとんどすべての作品が不朽の曲目となって世界中に知られています。偉大なる20世紀のアメリカ人ピアニスト、アーサー・ルビンスタインは次のように認めています。「コンサートホールにショパンの曲の、最初の音が鳴り響く時、そこには幸せの気配がある。全世界の誰もが彼の曲を知っている。人々はショパンの曲を好んでいる。心を動かされるからだ。独創的な表現であり、独自の芸術と言えよう」。また、コンサートやレコーディングでは常に取り上げられるほか、有名なバレエ、レ・シルフィード(Les Sylphides)で使われています。さらに「戦場のピアニスト」 や「シャイン」、「トゥルーマン・ショー」など無数の映画の中でも聴かれます。

  ショパンの広くゆきわたった人気が、天界の音楽の記憶を呼び起こす彼の才能にあることは疑いようがなく、そして内在の世界の音というのは、彼の創作インスピレーションの源でもあります。この才能は、彼の偉大なる手本である、ヨハン・セバスチャン・バッハの才能に似ています。バッハは、自分の作品は彼自身が作り出したのではなく、神からの恩賜であり、神を讃えるものであると考えていました。このような真の音楽の天才たちは、音楽を通じて単に人生経験を表現したいという願望を超越し、限りなく神そのものへ近づくのです。まさに、上記の評論家の「もし、素晴らしくも捉えどころのないこの特性が人類のものではなく神のものだとすれば、これは私たちへのショパンからの最高の贈り物である。要するに、ショパンはどの作曲家よりも内なる世界の音と体験の本質に、より近づいた表現をしているのである」という言葉のとおりです。

  従って、ショパンの繊細で霊的な特質、そして天国の音との同調が、彼の作曲家、そして演奏家としての限りない才能の鍵となっているのです。19世紀のピアニスト、アントン・ルビンスタインは彼を「ピアノの歌人、ピアノの吟遊詩人、ピアノの心、ピアノの魂」と称し、さらに「ピアノの精霊が彼に息を吹きかけたのかどうか、私にはわからない。けれども、可能な限りのさまざまな表現が彼の楽曲の中に見受けられる。彼は人のあらゆる感情を、この楽器を通して歌い上げているのである」とつけ加えています。

  ショパンの広範囲にわたる表現法は、たとえば作品34-2「華麗な円舞曲」の中に見られます。この作品は人間の魂に親しみある方法で話しかけて、高い境界(きょうがい)の音楽の美を反映させています。スプリームマスター チンハイの言葉を引用すると「天界の美しい旋律による教え」ということです。事実、多くのピアニストや研究者が、ショパンのワルツを「魂のダンス」と評しています。それは深遠なる霊性の反映---神への音楽的な愛の詩や人間愛、つまり作曲者の崇高な心境、内なる渇望の瞬間と強い人間的感覚を表現しているのです。ショパンの時代にあった雑誌「吟遊楽人」(Le Menestral)には次のように記されています。「(彼は)ピアノの精である。この人間の世界とは指一本でつながっているにすぎず、高い所からの夢によって生かされている。ショパンの演奏に耳を傾けてごらんなさい! それは、花の吐息のようであり、雲のささやきのようであり、星のつぶやきのようでもある」。

  また、高い境界に精通する準備ができていたことで、ショパンは自然にのびのびと作曲できたのです。彼の伴侶だった小説家のオーロール・デュパン(ジョルジュ・サンドのペンネームで執筆した人物)は、はっきりと次のように述べています。「彼の作品は自然に生まれたもので、奇跡的なものである。彼はそれを捜し求めることも、予知することもなく得た。それは彼のピアノに突然、完全な、卓越したものとして訪れた。あるいは歩いている時に脳裏に鳴り響くと、彼はそれをすぐにピアノで再現することもあった」。このコメントは、スプリームマスター チンハイがどのようにして内なる啓示にもとづいて芸術作品をすばやく、しかも自然に作り出すかを表現した言葉を思い起こさせます。「私のインスピレーションは頭の中からやって来るのです。 時には、それを描く前に色や形がやって来ます。ですから忘れないうちに急いでしなければなりません。非常にインスピレーションが湧いて、一日に10か20ものデザインができたり、一晩で約30もの洋服のデザインを描けたりすることもあります」

  ショパンはまた、悟りを開いた者の、謙虚で執着のない、純真な特質を持ち合わせていました。たとえば、ドイツの偉大な作曲家であるロベルト・シューマンは、ショパンの初期の曲、「ピアノ変奏曲第2番」について、よく知られた話ですが、次のような反応を示しています。「諸君、帽子を取れ。天才であるぞ!」この時、ショパンは謙虚に応じました。大衆の大騒ぎを嫌ったからですが、このことがすぐに彼を世界的に有名にしました。また、彼の手紙の抜粋は、この作曲家の超然とした態度と、シンプルな性質を証明しています。「私は革命的な人間である。お金は私にとって何の意味もない」そして「単純さは、すべての困難を克服した時に達成できる、最も崇高なゴールである」。スプリームマスター チンハイは次のように教えています。「私たちは、天国に戻るためには子供のようにならなければなりません。私たちは複雑になりすぎないようにし、何事も気にしすぎてはならないのです。成長してもなお、私たちは子供のような心を保つべきです」。ショパンの人生と作品を観察すると、彼は明らかにこの理想に従って行動していたようです。

終わりに

  ショパンが肺結核によって39歳というあまりに早すぎる死を迎えた時に立ち会った聖職者、Abbe Jelowicki は、彼が本当に幸せそうで、周囲の人に満足していると話したと語っています。この瞬間、ショパンはただ恍惚とした喜び、神への愛、この世に未練がないこと、そして肉体から早く去りたいという願いを示しました。彼は、イエス、聖母マリア、そしてヨセフの名を呼び、手にしていた十字架にキスし、それを胸に押し当てて泣きながら「今、私は幸福の源にいる」と言いました。あたかも自分が天国の光の領域に入ろうとしているのがわかっていたようでした。スプリームマスター チンハイによれば、「悟りを開くと永遠に生死の限界を超越するのです。いったん死の恐怖を乗り越え、非常に弱くておびえた魂がそれを理解すれば、私たちは永遠に不滅なのです」。おそらくこの点において、ショパンは彼の手紙にあった状態に、本当に到達していたのかもしれません。「単純さは、すべての困難を克服した時に達成できる、最も崇高なゴールである」


甘露法語

スプリームマスター チンハイ タイ・バンコク 1994.6.7(英語)ビデオテープNo.435 

実際、何事も放っておけばそのうちに何とかなるものです。
しかし、それでも私たちはできる限り人生をより良いものにするように努力し、
暴力的なことを常に避けるようにすべきです。
釈迦牟尼仏の物語のすべてに、この戒めが述べられています。
私たちは神の意志に身を委ね、寛容で、そして忍耐強くある必要があります。
時が来れば、すべてが変わるのです。


不思議な体験

二つの虹が、多文化のリトリートを加護する

リッキー・ディアマン イギリス・ロンドン(英語)

  2003年のクリスマス休暇中、私は幸いにもカリフォルニアのサンノゼセンターにおける2日間のリトリートに参加できました。そこは大規模なオゥラック系アメリカ人の居住区で、黄色い「コーンフレーク(黄色人種)」の中の白い「スノーフレーク(白人)」として、私はとてもすばらしい文化的体験をしました。うれしいことに、誰もが心の奥深くまで私を招いてくれました。それは「一つの愛、一つの世界」が真に存在することを証明するものであり、皮膚の色や文化など関係ありません。

  クリスマスの日の午後、修行仲間たちが装飾品やライトをつけて、センターにはお祝いの雰囲気が漂いました。その日は一日中、雨が降ったり止んだりしていましたが、私たちがキッチンとダイニングで仕事をしている時、メディテーションホールの入口のすぐ前に虹が現れました。それは階段の前から車道の突き当たりの門まで伸びていました。私が今まで目にしたどの虹よりも鮮やかな色で、見つめているうちにますます光り輝き、まるで強力なパワーがそこからほとばしり出ているようでした。マスターはきっと、私たちに常に開いた心を持つようにと、マスターが望みのままにどんな姿にもなれるということを示したのでしょう。彼女はひとつの観点に留まったままでいないようしばしば助言し、冗談に、マスターがあまりにも早く動くので私たちは追いつけないのだと言っています。

  飾り付けを手伝っていたディビッドが最初に虹を見つけて指差してみなに知らせたのですが、まさにその瞬間、もう一つの虹がそのすぐ後ろに現れました。彼にとっては、二つの虹が出ているのを見るのは初めてで、子供のように円を描いて走り回り、目に涙を浮かべながら大声で叫んでいました。すると、クッキングチームのメンバーが走り寄って来て、そのすばらしい光景を指差して、オゥラック語で叫んでいました。私には彼らの言葉はわからなくても、神の宇宙の言語は理解できました。それはみんなの間を巡って天空に放たれました。

  リトリートは全体的にリラックスした楽しい雰囲気で、誰もがシンプルに、そして深くサマディーに入っているようでした。スプリームマスター チンハイを知るためにやって来た人たちはみな加護されたのです。それは、サンノゼセンターでの2日間のリトリートが、マスターの深い無条件の愛の中で行われたからです。マスター、あなたの限りない加護に感謝いたします。

 

言葉を超えた至福の悟り

トーマス・ハ アメリカ・オクラホマ州・オクラホマ(オゥラック語)

  マスターから、世界の霊性の上昇についてのワクワクするようなニュースを受け取ったその時、突然、私の心にはっきりとした子供のような大歓声が聞こえてきました。それは18世紀の西洋クラシック交響曲に似て、滑らかに、きらきら輝く旋律のように広がっていきました。また、冬の夜、木々や植物を眺めていた時、とても明るい色の光がオクラホマの荒れ狂う空から放たれているのが見えました。突然あふれ出た喜びに私の目は涙でいっぱいになり、それはかつて経験したことのないものでした。

  その後の2004年1月17日、オクラホマセンターでの共修に参加する準備をしていた時、私は一筋のとてつもなく明るい光が自分の頭頂から閃光のように勢いよく上昇して、エメラルドグリーンの湖に隣接する壮大な豪邸の立ち並ぶ区域にまで明るい光を放っているのに気がつきました。一方で、無数の花々が天界の音楽のようなエキゾチックでメロディアスな言葉で語りかけてきました。木々に咲いた花々は「天堂花」というマスターの絵によく似ていました。次の瞬間、華麗な花々のすべてが、優雅な舞を演じている美しい月の妖精たちに変わりました。その時、私は外在の自分に気づきませんでしたが、完全に自分の魂の存在を認識し、筆舌に尽くしがたい天界の幸せと完全な悟りの意識に満たされていました。この世界には、こんなにもすばらしい天国の境界(きょうがい)と幸福感を十分に表現できる言葉はありません。さらに、色や形、旋律、光、そして純粋な幸福に満ちた、そのような驚くべき光景は、この物質的な世界での私の人生に一度も現れたことのないものでした。

  この体験の間、私は自分が、まるで大海の中の一粒のとても小さな滴のように感じていました。私の意識の中に鮮やかに残っているのは、マスターの隅々までゆきわたる慈悲、愛、真理であり、それらは宇宙にくまなく、そして常に、すべての目に見える衆生、そして目に見えない衆生に与えられているということです。

神の体験を通じてマスターパワーを再認識する

解脱した女性同修 南アフリカ・ケープタウン(英語)

  田舎から都会へと引っ越した後、最近立て続けに起きた個人的な試練に遭遇するまで、私は自分のことをかなり勤勉な弟子であると考えていました。新しい都会の環境で、私は自分が今まで経験してきた生活スタイルが変化することへの覚悟ができていませんでした。生計を立てるために3つの仕事をこなさなくてはならなかったからです。夜間に働くことも、ケープタウンセンターの共修会への参加に支障をきたしました。メディテーションによる保護のない生活の混乱状態に陥って、私は興奮しやすく、イライラして怒りっぽくなりました。人やさまざまな出来事があまりに多すぎて耐えられないように思えました。この間、私はその状況を克服しようとずっと奮闘していましたが、メディテーションの量は徐々に減り、まもなく自分は共修に参加するにはふさわしくないと感じるようになりました。

  その後、2003年の3月と4月の短期間、私はようやくセンターへ戻ることができました。そこで私は観音ファミリーの霊性の上昇に関する驚くべきメッセージを耳にしました。不退転菩薩のレベルに到達した私たちの兄弟姉妹を目で見て認識できるのはとてもすばらしく、元気づけられることでした。

  しかし、また私は自分自身で判断し始め、毎日の仕事に没頭するようになって、再び共修へのさぼり癖が出てきました。しかし私の心は霊性の向上を切望していました。この期間に、私には3つの強烈な内的体験があり、それを修行日記につけていましたので下記にご紹介します。

  体験1:2003年10月21日。混沌とした中、神のエネルギーが、上から私の心臓のイメージ(「聖心」という色鮮やかなカトリックの絵の中で、イエス・キリストが手にしているものとよく似ている)の中に注ぎこまれる。それはまるで陽光の中で咲く花のように私の心を開き、無限の至福を与えてくれたのだった・・・。

  体験2:2003年11月23日。車のドアを開けて足をさっと出した。すると突然、「オム」という音が響いているのに気がついた。私はその完全なる音調と、それが生み出す振動に感銘を受けてうっとりした。私にはそれが地中でのことだと感じられる。そこに座ったまま、私は全神経を傾けてそれを聴いた。実に荘厳だ!

  体験3:2003年11月26日。期せずして自分の名前が「その欄」にあるのを見つける。それはまさに「新しく解放された魂」として、高等なレベルに到達した印心者の名前が載った神聖なる紙面そのものだった。紙面があまりに明るく輝いているためはっきりと見ることはできないが、その書式は認識できる。私はただそれが何であるのか確信している。とてもうれしい! そして、自分は今までどうしようもない修行者であったと思った。かなり自己修正をする必要がある。自分の名前がそこに載っていることさえ信じられない。私の努力などではないのだ。

  けれどもその後、私はこれらの内的体験は、単に自分の願望的思考に起因するものにすぎないと結論付け、そのようなことを夢見るのさえ傲慢であると自らを叱りました。しかし私がやっと共修に戻った時に、マスターから示された慈悲深いクリスマスの言葉である、解脱した地位に到達した魂の数が増えたという発表を目にしました。

  マスター、ありがとうございます。あなたの神聖な慈悲を与えてくださったことに感謝の気持ちと愛でいっぱいです。私が今までのおろかな生き方を変える強さを見出させてくださいますように。そうすればあなたが受けるに値する感謝の気持ちと愛をささげることができます。

  注:この女性同修は政府の基金プロジェクトでずっと働いています。経済的に恵まれない人や体の不自由な人がそれぞれの地元で得られる廃棄物や植物の繊維から手作りの紙や手工芸品を作って自立した仕事を始めるのを助けています。彼女はこう言います。「私はあまり恵まれない人々に紹介できる世の中の情報を多少持っているかもしれません。けれども彼らは彼らで、私の慈悲心を伸ばす大きな助けになってくれているのです」と。

マスターの恩恵で救われた私たちのリトル・ローズ

Tom Verhaeghe ベルギー・フランダース(英語)

  観音法門の印心を受けたことは、私の人生において最も幸運な出来事の一つでした。それ以来、私の日々の生活は奇跡に満ちたものとなっています。その内の一つをニュースマガジンの読者のみなさんにご紹介したいと思います。

  印心を受けてまもなく、私の姉の胎内にいる女の赤ちゃんがファロー四徴症(Tetralogy of Fallot=TOF)であると診断されました。それは心臓の機能障害と他の欠陥を伴う(心室中隔欠損、肺動脈狭窄、大動脈騎乗、右室肥大の四つの特徴を持つ)深刻な先天性の病気でした。二人の専門医がその診断結果を認めて、赤ちゃんは生後1年の間に少なくとも4~5回の開胸手術を受けるであろうことを示唆しました。この専門医の意見を聞いて家族全員が泣きました。

  私は地元の修行仲間たちから、誠心誠意メディテーションをして多くの良い体験やすばらしい奇跡がもたらされたという話を聞いていました。そこで、マスターに全幅の信頼を置いて、私たちは「お尻の肉が落ちる」までメディテーションを始めることにしました。また私は、たとえそれが非常に深刻なケースであっても、祈りとメディテーションによって良い効果が得られることについて、マスターの教理を話したり、インターネットから探し出した記事を送ったりして家族が納得するよう努めました。さらに、私の母は事態が好転するようにと熱心に祈り始めました。

  最初にほっとしたのは、数週間後に姉が心臓病について学んだ別の専門家の元を訪れた時のことでした。その専門家は、赤ちゃんの状態は改善してきている、そして特に大動脈に開いている穴が小さくなったと言ったのです。この進展が、マスターの導きのもとでメディテーションを続けるよう、私たちの心を駆り立てました。

  数ヶ月後、親からローズと名づけられたその子は、緊急時の処置に備えて特殊医療チームの立会いの下でかなり緊迫した状況で生まれました。しかしながら、幸運なことにすべてはうまくいきました。そして生まれて数日後、新米の両親は医師のオフィスに呼ばれました。その医師は途方もなくすばらしいニュースを伝えられることを非常に喜んでいました。さらに、これは彼にとってめったにない出来事でした。赤ちゃんが抱えていたすべての問題が奇跡的に良くなっていたのです! 彼女の大動脈には依然として小さな穴が開いていましたが、それを覆うようにすでに組織が育ってきており、全快の兆しが現れていたのです。それは彼のこれまでの経験にはないことでした。ファロー四徴症にかかわる病状は深刻で、通常は自然治癒することはないからです。私たち家族全員の顔に笑みが浮かんだことはご想像いただけますね。私たちは非常に安堵するとともに、感謝しました。

  このすばらしい話は、マスターの無限の恩恵と計り知れないほど大きな無条件の愛を示しています。小さなローズに対するマスターの神へのとりなしは、私が今まで願ったもの以上の助けとなっています。
マスター、神への道をお示しくださり、ありがとうございます。改めて感謝いたします。


甘露法語

スプリームマスター チンハイ タイ・バンコク 1994.6.7(英語)ビデオテープ No.435

ほとんどの人々が、敵を滅ぼす最高の方法を知りません。
彼らの肉体を傷つけるのではありません。
ただ彼らの邪悪な心を消滅させるだけなのです。
そうすれば彼らは永遠に滅びてしまうでしょう。

スプリームマスター チンハイ タイ・バンコク 1994.6.7(英語)ビデオテープ No.435

過去、現在、そして未来のすべてのマスターたちが、
私たちに真の人間の善良なる性質を説明しようと努めています。
彼らはただ話すだけでなく、自ら手本を示して教え導こうと、
そして常に愛情深く寛容であるよう、
また常に自分より他人の利益を優先するように教えようとしているのです。



問答精選

スプリームマスター チンハイ イギリス・ロンドン 国際禅四(英語)1997.8.27 ビデオテープNo.595

霊性と世俗のバランスのとれた生活を送る

Q:あなたの本やビデオを見ていて気づいたことの一つは、人は内在のマスターを探すべきで、修行のために俗世間の仕事や生活を放棄する必要はないとあなたが再三強調されている点です。私はそこにとても興味を感じています。なぜなら、私は仕事と霊修のバランスを取ろうと努めているからです。どうかそれについてご説明くださるか、もう少しご指導くださいませんか?

M:私はすでにはっきりと話しています。それとも、あなたはお坊さんになりたいのですか。そして一人でヒマラヤへ行きたいのですか。

Q:確かに、時々それがとても魅力的に思えることがあります。

M:そういうことのすべてを、私たちはすることができます。必ずしも一つの選択に限定する必要はありません。例えば、あなたは俗世間で自分の望むような成功を収めてもよいのです。これは当然のことです。私たちはこの世界に芝居をしに来たからには、できるだけうまく演じるべきです。しかし、時には長く演じすぎて疲れることもあります。そうしたら、しばらくの間リトリートに行けばよいのです。ヒマラヤへ行ったり、ここでのリトリートやどこか別の所のリトリートに参加したりして、気分をリフレッシュさせてエネルギーを充電します。私たちはしたい事は何でもできます。たった一つの事しかできないというわけではありません。

しかし、シンプルな生活を好む人もいて、単一な生活スタイルを選択します。例えば、ある人は世間を捨てて、ヒマラヤやチベットへ行き、神を悟ることに全生涯をかけます。こういう人も成功したと言えます。何をすべきかは、その人のカルマと因縁によります。私たちはこの世界に降りて来る前に、すでに自分の歩くべき道を選択しているのです。どんな道も、もう一つの道よりも良いとは限りません。このことを私は特に言いたいのです。あなたは今生で事業に成功した実業家となるべき定めかもしれませんから、そのまま続けるべきです。しかし、いずれの道でも極端になってはいけません。誰でも中庸の道を保つべきだと私は強調したいのです。私たちは何をしてもよいのです。そうしてこそ、生活がより多彩でおもしろくなるのです。

三種類の霊性の師

Q:私はかつて、生活か修行かで大きな難題を与えられ、仕事を一種の霊性の象徴にしようと決意しました。し かし、これは非常に努力を要するものです。時にはたいへん難しく思え、ヒマラヤに行ってそのことから遠ざかるべきだと強く感じたりします。

   しかし、あなたは私たちに内外両面のマスターと交流し、指導を求めるべきだと話されました。私は、それが私を正しい道へと導くため、そして私の精神にとっても大きな助けになると思います。そうすれば私は自らの平安と時間を手に入れることができるのです。

M:そうです。外在のマスターは、ただあなたが自分のマスター、つまり真の自分を見つけられるよう指導する だけです。ただ正しい道を示すだけですから、あなたは自ら運転しなければなりません。しかし、外面のマスターが同時に内面のマスターでもあることに気づく場合もあります。これはとてもおもしろいことです。時には、外面のマスターが単に外面のマスターであるだけで、内面のマスターになり得ないことに気づく場合も ありますし、内面で会ったマスターが、肉体で現れることはないとわかる場合もあります。
つまり、三種類のマスターがいるのです。一つ目はただ外面のみのマスターで、理論や教義を教え導くにすぎませんが、それも私たちにとって、とても役立ちます。二つ目は、過去の、あるいは現在のマスターで、内面のものです。「内面」とは比較的高い意識レベルでのことを指しますが、この種のマスターは肉体の形で現れることはないので、この世界で彼らを見ることはできません。メディテーションを通じて、内側の境界(きょうがい)でのみ対話できます。
この二種類のマスターは、一つ目は完全に外面のみで、もう一種類は内面に属します。時々メディテーション中に、深くメディテーションをしている場合に、イエスやブッダのような過去の、あるいは現在のマスターと交流することができるのです。しかし、ただ内面のレベルでのみ可能なだけです。街中やこの世界のどんな所でも彼らに会うことはできません。これが内在のマスターです。
もう一つ別の種類のマスターというのは、内面の比較的高い意識レベルで私たちを指導できますが、同時に、この世界で見ることもできます。彼らに触れたり、握手したり、語り合ったりすることができるのです。
ですから、マスターには三種類あるのです。内面と外面の両方で私たちを導くことのできるマスターを見つけるのは、他の二種類のマスターを見つけるよりも困難です。一つ目のマスターは比較的容易に探せます。二 つ目のマスターを見つけるのはやや困難です。なぜなら、私たちは比較的高い意識層に上昇しなければ、この種の内在のマスターに会うことができないからです。そして三つ目のマスターは、最も探すのが困難です。
多くの場合、外在のマスターの導きによって私たちは内面のマスターを探し出しますが、もし一人のマスター が同時に内面と外面のマスターであるなら、このマスターはすでに非常に開悟していて、私たちに外面の教義理論を教える他、内面のあらゆる境界に通じることもできます。これは稀なことです。この種のマスターはとても珍しく、イエスやブッダのような人だけで、真のマスターなのです。  

在世のマスターは常に私たちと共にいる

Q:もし一人のマスターから内面のマスターとの対話方法を指導されたとしたら、その実在のマスターから離れた場合、他の修行団体の人と一緒になってもよいのでしょうか。そして、やはりその人たちは同じ修行仲間と言えるのではありませんか。みな内面の師に従っているのですから。

M:どんなマスターを探したかによります。仮に、実在のマスターだけを見つけたとします。そしてそのマスター  は物質界で外面から指導できるだけで、内面のレベルに到達していないために内面に行かれないとします。それならば、もちろん他のマスターを探しに行き、別の団体に入ることができます。そうする必要があるからです。
そうではなくて、仮に内面だけのマスターを見つけたとします。例えばメディテーション中に、イエスが内面であなたに話しかけたのに気づき、しかも、それは幻想ではなく本物のイエスだったとします。イエスの霊体があなたに話しかけるのです。しかし、深い意識レベルで、霊的覚醒状態にある時のみ、彼と交流できます。もしそうならば、ちろんあちこちに行って、誰か他の人たちと会って一緒にメディテーションできます。
しかし、もし物質レベルだけでなく内面の意識にも現れることのできるマスターをすでに見つけているのならマスターがどこにいても心配する必要はありません。そのマスターは遍在しているからです。いったんこの種のマスターと交流すれば、そのマスターは常に面倒を見てくれます。自分がどこにいたとしても---内面レベルにいようと、外面レベルにいようと、地獄であろうと天国であろうと---孤独になることはありません。そのマスターは遍在しているからです。肉体のみでなく、内面の霊性の師でもあるからです。ですから、他のマスターや先生の所へ行って一緒になる必要はありません。もちろん、行きたければ構いませんが。しかし、内 面、外面どちらも有するマスターといったん交流すれば、決してそのマスターとの連絡を失うことはないのですから、必要はないのです。


魂の高揚

  スプリームマスター チンハイ 最新DVD

   674  愛と笑いの中をゆく



1999年11月28日~30日 南アフリカ・ケープタウン 禅三 <英語による講義 24ヶ国語字幕>

常に天国の状態のままでいるために、私たちに出来ることは何でしょうか?
マスターは次のように述べています。
精神的な仕事と世俗の仕事、どちらをする時も
成功するための永遠の秘訣は、笑顔でいることです。
なぜそうなのでしょうか?
私たちのソウルメイトは、ただ一人だけですか?
すべての人に運命があります。私たちの自由意志を、
私たちの未来を変えるために使うことが出来るのでしょうか?



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